人間以外の命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 05:38 UTC 版)
ヒンドゥー教徒は実質上人間の体の中の魂と動物の中のそれを区別しない。行動規範と結び付けられたアヒンサーは狩猟、畜殺、肉食および暴力的手段によってまかなわれる動物製品の使用の禁止を暗に意味するがゆえに、動物に対する倫理的な義務とそれらに対する暴力から招く好ましからざる業の問題がいくつかのヒンドゥー教聖典と宗教的な法典において詳細に議論された。 情報源のいくつかの文献では、問題の倫理的側面に触れることなく肉食について議論している。紀元前5世紀または紀元前4世紀に書かれた法典ダルマ・スートラは肉食に対する規定と食べられる動物の一覧を含んでいる。『アーユルヴェーダ』の医療論説ではアヒンサーの側面に触れることなく純粋に健康に関する観点から肉について議論し、それを推奨している。例えば3世紀か4世紀に書かれたSushruta Samhitaではある種の患者と妊婦に対して牛肉を推奨し、Charaka Samhitaでは病後療養中の患者にはどの種の食べ物よりも優れていると肉を記述している。 権威の高い様々な聖典において、祭式犠牲の場合を除き家畜に対する暴力を禁じている。この点は『マハーバーラタ』、『バーガヴァタ・プラーナ』(11.5.13-14)と『チャーンドーギア・ウパニシャッド』(8.15.1)で明白に表現されており、特に名声のある伝統的ヒンドゥー教法典(ダルマ・シャーストラ)である『マヌ法典』(5.27-44)にも反映されている。これらの文献では動物の屠殺と肉食は強く禁止されている。『マハーバーラタ』では戦士(クシャトリヤ)による狩猟は許されるが 、厳格に非暴力であるべき隠者では禁止される。 それにもかかわらず、これら情報源ではアヒンサーの賛同者と肉食を行う者との間の歩み寄りが危なっかしくかつ激しく論じられており、アヒンサーの唱道者によって祭式屠殺と狩猟という抜け道さえ要求されている。『マハーバーラタ』と『マヌ法典』(5.27-55)は祭式屠殺の合法性について長々しい議論を含んでいる。『マハーバーラタ』においては、どちらの側も自分の観点を実証する種々の主張を提示している。さらには狩人が長い論説で自身の職を弁護している。 動物への非暴力の賛同で示された議論の多くが、生前または死後に課せられる報いと暴力による恐ろしい業果に言及している。特に、故意に動物を殺した者が後生で業に対する報いのために動物に食べられるであろうことを指摘している。アヒンサーは神秘的な能力、無上の喜びと最終的な救済を獲得するための必要条件として記述されており、さらにはあらゆる種類の危険から守ると言われている。『マヌ法典』(10.63)、カウティリヤの『実利論』(1.3.13)と『ヴァシシュタ・ダルマ・スートラ』(4.4)ではアヒンサーは社会におけるすべての四階級(ヒンドゥー教のヴァルナ)に対する義務であると指摘している。文献ではアヒンサーは全ての形態の生命に拡張されるべきであると宣言されている。それらはまた植物の保護にも注意を払っている。『マヌ法典』では野生の植物と栽培した植物の両方に対する理由のない破壊を禁止している(11.145)。隠者(サンニャシン)は植物の破壊を避けるためにフルータリアンな食事に基づき生活しなければならない。 この状況において、狩猟と祭式屠殺の擁護者はそれらの活動の暴力性を否定しなければならなかった。彼らは法律に則った暴力は実際には暴力ではないと想定した。彼らによれば、犠牲のための殺害は殺害ではなく、世界全体の繁栄を意味する。彼らはまた、屠殺された動物は輪廻転生で高貴な再生を得られるであろうから、そのような殺害は実際には情け深い行為であると提唱する。さらには、いくつかの種は犠牲として捧げられ人間に食べられる目的のために創造されたのだ、殺したり他の動物を食べることは動物にとっては普通のことである、農業も必然的に多くの動物の死を導いている、植物は破壊されてもまだ活気ある生物なのである、我々はいつも何気なく意識せず生命形態を破壊している、狩猟される動物も狩人を殺すことで生き残るための公平な機会を持っている、などと主張する。
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