京都での抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:20 UTC 版)
義貞は12月30日に帰京した。しかし、義貞を追撃する尊氏が、破竹の勢いで京都まで攻め上がってきていた。年があけると、京都の覇権を巡り尊氏と後醍醐帝配下の諸将の間で激戦が始まる。 帰京後も、義貞は尊氏討伐の全軍指揮官の地位にあったらしく、『太平記』には1月に義貞が各所に軍勢の配置を行っている記述が見られる。最初の内は、まだ総大将である尊氏、義貞らが陣頭に姿を現さず、小競り合いが続いたが、やがて尊氏に合力して山陰道から進撃してきた軍勢と尊氏の本隊が合流する。さらに、中国、四国地方の軍勢を糾合した細川定禅軍もこれに合流した。10日、淀川近辺で両軍は激突する(淀大渡の戦い)。この戦いは義貞らの敗北に終わり、後醍醐帝は遷幸し、義貞もこれに供奉した。京都は足利尊氏の軍勢に占領されることとなった。 だが、奥州より上ってきた北畠顕家が京都へ到着することで、この形勢が逆転する。13日に両者の軍勢が合流すると、両軍は足利側の園城寺を攻撃し、陥落させる。16日には足利直義の軍勢に正面から突撃を敢行して蹴散らし、さらに高師直の軍勢までも破り、余勢を駆ってそのまま京都に攻め上り洛中を制圧した。しかし、直後の市街戦において細川定禅の知略に翻弄されて敗退し、京都奪還は失敗する。これらの京都奪還を巡る戦いの中で、義貞は船田義昌を初め複数の重臣を喪った。船田らが戦死した場所、時期については、園城寺攻略時とも、京都での細川定禅との市街戦の時とも言われる。また、果敢に京都に攻め入りながら敗北した義貞と、その義貞を手玉に取り、智謀を用いて敗退させた細川定禅を、京都の市民はそれぞれ項羽、張良に例えた。 これに前後して、義貞が北国へ逃走を企てているという風聞が足利軍に流れる。この風聞に対して、足利直義は、若狭の本郷泰光に対して落ち延びる義貞を討伐するよう促す文書を送っている。この文書において、直義は義貞を「落人」と表現し、敗北者のように扱っている。 義貞の方は、20日に東山道を通って鎌倉から引き返してきた尊良親王の軍勢2万と合流した。28日、義貞は楠木正成、北畠顕家、名和長年、千種忠顕らと共に、京都へ総攻撃を仕掛ける。この合戦は30日まで続いた。この合戦の結果、尊氏は京都を追われ、後醍醐帝が京都を奪還する。この合戦の最中、義貞は鎧を脱ぎ捨てて尊氏に一騎討ちを挑もうとしたが、果たせずに終わった。合戦は楠木正成の策略と奇襲によって後醍醐帝らの勝利に終わり、京都の奪還には成功したものの、尊氏、直義兄弟ら、足利軍の主要な武将の首級を挙げることはできなかった。敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れた。 足利軍はまだ再上洛を諦めず抵抗を続けていたが、2月11日に義貞らは摂津国豊島河原(大阪府池田市・箕面市)の戦いで破った(豊島河原合戦)。足利軍は九州へと落ち延びてゆく。義貞は、周防国の吉川実経に敗走する尊氏を討伐するよう要請した。しかし、実経は直後に尊氏から勧誘され、尊氏側に与してしまった。そのため義貞の要請は無視されたものと見られる。 義貞は足利軍を打ち破った功績により、2月に正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任し。播磨守を兼任する。
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