交易と流通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 13:27 UTC 版)
ゲルマン人の侵入と各種の社会混乱の中で西ローマ帝国が崩壊したあとも、地中海を中心とするローマ世界が解体したわけではない。メロヴィング朝時代のフランク王国においても、地中海交易はかつてのローマ時代から継続して活発に行われ、王国中枢であったガリア北部へも継続して地中海交易による物資がもたらされていた。この分野における研究で20世紀半ばに一時代を期したアンリ・ピレンヌは、サン=ドニ修道院やコルビー修道院(英語版)がプロヴァンスの都市マルセイユなど、地中海沿岸の流通税徴収所から物資の供給を受けていたことを例証としてあげている。ここで集められた物資の中にはパピルスや胡椒、そして各種の奢侈品など、いわゆる東方物資が数多く含まれていた。 こうした交易活動は上でも触れた流通税に関する記録から知ることができる。中世ヨーロッパの全期間を通じ、流通税は物資の流通と権力構造を映す鏡であり続けた。流通税はポルトリウム(portorium)またはテロネウム(teloneum)と呼ばれる帝政ローマ時代の制度に源流を持ち、商品の通過と取引に課税される間接税であった。メロヴィング朝時代にはこの流通税はローマ時代とほとんど変わらない運用がされていたとされ、王国の役人が管理する流通税徴収所で徴収され国庫に納められた。この流通税は王国の財政上きわめて重要であり、これを統括する役人は伯と同格とされた。一方で流通税徴収所には物品の一時保管所が付属し、輸出入品の一時保管機能が提供されるなど、交易活動に必要な機能の一部を提供していた。したがって、単純に国家が交易活動から利益を徴収するための存在であったとのみ見ることはできない。 流通税徴収所と並び流通構造に大きな意味を持っていたのがキウィタスである。これはローマ時代、さらにはそれ以前のケルト時代からの伝統を引き継ぐもので、一種の行政単位であった。帝政ローマ時代にはキウィタスの中心地には司教座が置かれ、地域の中心としての役割を果たすようになった。キウィタスでは市が開かれ、財貨の交換がきわめて日常的に行われていたことが、トゥールのグレゴリウスなどによって記録されている。 ローマ世界の延長線上にある側面が色濃いとされるメロヴィング朝時代の流通構造は、7世紀に入るとカロリング期に向けて緩やかな構造変化を開始した。大きな影響を持ったのは、ガリア北部に数多く建設された修道院が次第に経済力を強め、生産と流通の拠点として現れてくること、金本位制が衰退し銀貨が急速に普及すること、地中海交易の重要性が相対的に低下すること、そして北海・バルト海方面での交易活動の活発化であった。特に北海・バルト海方面での交易活動は、ワイン、穀物、毛織物、金属製品や武具などの生活要因が大半を占め、地中海交易に特徴的な奢侈品が存在しないことが特徴であり、交易主体の多様化を示している。 カロリング期にはこの構造的変化はさらに加速し、流通構造は重層的な姿を示すようになった。地中海交易はメロヴィング期に引き続き途絶えていないことが、流通税徴収所に関する記録から明らかになっている。また、カントヴィク(英語版)、ドレスタット(英語版)を拠点とした北海・バルト海交易はフランク王国にとって第一級の意味を持つものに成長した。サン=ドニの年市にはアングロ・サクソン人やフリーセン人の商人が集まり、各種の商品を取引した。そして、修道院に代表される聖界領主が経済力を強めるとともにフランク王から流通税免除特権を獲得し、さらに領民の労働賦役による物資運搬によって市場との結びつきを恒常化していった。こうした流通構造の重層的構造は、地域経済、そして中世盛期以降の発達した国際的流通の基礎的条件のひとつとなっていった。
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