事業統合の推進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:48 UTC 版)
鶴田発電所完成前の1924年2月10日付で南九州水力電気を合併したのを皮切りに、同年6月高隈電気の設備一切を競落して継承、1926年(大正15年)2月28日川内川電気を合併、1927年(昭和2年)12月1日万瀬水力電気を合併、という具合に日本水電は相次いで周辺電気事業を統合し、鹿児島県の北西部から南部にかけて供給区域を拡大、九州における中規模電気事業者へと発展した。 南九州水力電気株式会社 1920年(大正9年)7月、肝属電気・国分電気・薩隅電気の3社が合併し成立。資本金は260万円で、鹿児島市内に本社を構えた。肝属電気株式会社は肝属郡鹿屋町(現・鹿屋市)の会社で、1916年(大正5年)4月に設立。まず南隅電灯・花岡電灯の2社を合併し(1916年3月認可)、次いで鹿屋電灯(1917年7月認可)と大根占電灯(同年11月認可)を合併して、鹿屋町を中心に肝属郡の13町村と囎唹郡の1村に供給区域を持った。 国分電気株式会社は姶良郡国分村(現・霧島市)の会社で、1911年(明治44年)12月に設立。1913年(大正2年)3月に開業し、国分村など姶良郡の7村に供給した。 薩隅電気株式会社は姶良郡栗野村(現・湧水町)の会社で、1918年6月に設立。同年12月に開業し、姶良郡の3村と伊佐郡の6町村に供給した。 1923年11月末時点における南九州水力電気の供給区域は肝属郡13町村・囎唹郡1村・姶良郡10村・伊佐郡7町村からなり、電灯供給は灯数4万9,833灯(ほかに臨時灯あり)、電力供給は小口1,135馬力、大口2,500キロワット(鹿児島電気軌道へ1,500キロワット、日本水電へ1,000キロワット)という供給成績であった。発電所は水力3か所(出力計4,100キロワット)およびガス力1か所(出力15キロワット)を擁していた。 高隈電気株式会社 鹿児島市内の会社で、1920年12月に設立。高隈川に水力発電所を建設し東桜島村ほか7村に供給したが、小規模事業のため多額の負債を抱え、その設備一切を日本水電が競落し引き継いだ。 川内川電気株式会社 薩摩郡隈之城村(現・薩摩川内市)の会社で、1910年(明治43年)3月に設立。1918年7月の社名変更までは「川内電気」と称した。1911年12月に開業し、1920年1月に串木野電灯を合併、次いで1924年(大正13年)6月に出水電気を合併し、資本金260万円の会社となった。 1926年2月末時点における供給区域は薩摩郡20町村・日置郡2村・出水郡6町村からなり、電灯供給は定額電灯が5万353灯、従量電灯が7,961灯、電力供給は小口680馬力、大口700キロワット(三井串木野鉱業所への供給)という供給成績であった。発電所は川内川水系に2か所(出力計1,700キロワット)存在したが、供給力不足のため日本水電などから受電していた。 万瀬水力電気株式会社 川辺郡加世田町(現・南さつま市)の会社で、1912年(大正元年)8月に設立。1914年(大正3年)2月に開業し、同年7月指宿電気より、次いで1916年9月枕崎電灯よりそれぞれ事業を買収して川辺郡のほか日置郡・揖宿郡に供給した。1927年の時点での電灯数は4万8,003灯で、日本水電・鹿児島電気に次ぐ鹿児島県第3位の電気事業者であった。日本水電との合併時点の資本金は100万円。 この間、南九州水力電気の合併に伴い同社本社建物を引き継ぎ鹿児島市内に本社を移転している。また同社の合併で資本金は300万円から560万円に増加した。その後1924年12月に100万円の減資を実施するが、川内川電気の合併で824万円に増資し、さらに万瀬水力電気の合併で資本金は974万円となっている。 上記の4社以外にも、日本水電は1925年(大正14年)に都城電気との合併を発表した。同社は1910年7月に開業した電気事業者で、当時宮崎県都城市を中心に同県北諸県郡と、県境をまたいで鹿児島県囎唹郡の7町村に供給していた。しかし都城市による市営化問題が浮上して合併は成立せず、翌1926年(大正15年)に日本水電ではなく熊本県の球磨川電気が都城電気を合併し、1927年(昭和2年)に市域の事業を買収して都城市営電気供給事業が成立した。
※この「事業統合の推進」の解説は、「日本水電」の解説の一部です。
「事業統合の推進」を含む「日本水電」の記事については、「日本水電」の概要を参照ください。
- 事業統合の推進のページへのリンク