九鬼氏の統治とは? わかりやすく解説

九鬼氏の統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:02 UTC 版)

三田藩」の記事における「九鬼氏の統治」の解説

九鬼氏藤原北家熊野別当末裔紀伊国牟婁郡現在の三重県尾鷲市)で起こり志摩国鳥羽藩三重県鳥羽市)を拠点九鬼水軍統率し秀吉九州征伐朝鮮出兵水軍総督務めた大名である。守隆の死後、五男の久隆三男の隆季との間に家督争い起こり、この家督争い理由内陸三田綾部それぞれ移封となる。これにより、九鬼氏鳥羽の地と水軍失い宗家三田移し廃藩置県までの約240年間、三田藩統治することになる。 居城三田陣屋で、現在の有馬高校校舎敷地三田城跡)に二の丸御茶屋武器庫煙硝蔵などを設け現在の三田小学校敷地御館築かれた。御館は、御広間御小書院御大書院御居間台所御局御守殿などから構成されていた。現在陣屋跡には水堀残り御下屋敷表門黒門)の部材金心寺の門に使用されている。 九鬼氏石高にそぐわない多く家臣団召し抱えていたため、財政は入封早々より行き詰まった2代隆昌時代に藩の機構整えられた。7代隆由は寛保2年1742年藩校国光館」を開いた8代隆邑の安永9年1780年)には増税により農民一揆起こり城下商家数件が打ち壊し遭った特筆すべき10代藩主隆国である。天保10年1839年)に城主格大名引き上げられた。好学の名君であり文政元年1818年藩校である「国光館」を新たに造士館」として発展させた。また洋学にも関心示し幕末に向け三田藩近代化推進する素地開いた中興の祖である。 最後13隆義藩政改革行い軍隊洋式改めた慶応3年1867年藩論倒幕統一され鳥羽・伏見の戦いにおいても洋式軍隊率い官軍方として参戦したまた、明治維新が起こると、近代港として神戸港整備されると知るや、幕末から明治維新混乱による財政立て直し廃藩置県困窮する三田藩士を救うべく、藩士白洲退蔵白洲次郎祖父)、小寺泰次郎とともに志摩三商会」という神戸初の輸入商社を設立する。これが成功収め不動産金融業乗り出し現在の元町三宮といった神戸港周辺の都市開発神戸女学院前身である女子寄宿学校神戸ホーム創立関わるなど、神戸街づくり多大な影響及ぼしている。 明治4年1871年廃藩置県により三田県となる。その後兵庫県編入された。 藩主家明治2年華族列し明治17年1884年)に子爵となった

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