三田藩士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:17 UTC 版)
退蔵は1829年(文政12年)に三田藩内(現・兵庫県三田市)の薬師寺町に生まれる。父親は三田藩儒官。幼名は純太郎。諱は良弼(りょうすけ)。篠崎小竹、古賀謹一郎から学び、藩校「造士館」の教授になる。 1862年(文久2年)町奉行兼郡奉行になり、財政再建に取り組む。1863年(文久3年)に藩主九鬼隆義に請われて藩重役、大参事として藩政に加わる。良く時勢を洞察して、諸藩に先立って、古参の藩士たちを説得して、藩政の改革を着手する。特に、西洋文明を輸入することを勧め、中村敬宇、福沢諭吉の翻訳所などを日々藩主に紹介して、閲覧を進めて、衣服や器具などすべてを西洋風にするようになった。また、退蔵の指導の元、藩兵の大胆な改革を行い、鎧冑をすべて売却して、西洋式軍装に350のスナイドル銃を持つようになる。 三田藩の殖産興業に勤め、三田米を使用した「牡丹政宗」という銘柄を造ったり、三田牛(神戸牛)の飼育を奨励したりする。 1854年(嘉永7年)のペリーの黒船来航の時には、浦賀に出かけて農民の姿を装い情報を収集する。戊辰戦争の際には、藩論を統一して倒幕に加わる。
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