三田時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 06:37 UTC 版)
半年後幕府と藩の命令により、江戸在住の藩士は家族共々に帰国せよとの命令が下り三田に戻った。三田では新設された藩校のコース造士館の白洲退蔵(白洲次郎の祖父)の下で学んだ。親子で緒方洪庵の下で西洋医学を学ぶことが決まったが、1863年(文久3年)12月29日に養父が急逝し、武士の身分になる。 1864年(元治元年)に馬関戦争が起こり三田藩は大坂の町の西の入り口の神埼(尼崎市)にある砦の守りを固める役目を命じられた。 明治4年(1871年)11月三田藩は尼崎藩と一緒に、兵庫県に統合されて三田藩士の立場を失う。5月に元三田藩士の三田城への登城命令があり、一時金を受け取る。6月に横浜に行き、旧藩主の九鬼隆義と白洲退蔵が経営していた志摩三商会の横浜支店の経営を任された。
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