九鬼時代
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その後、同年九鬼水軍で名が通っている九鬼久隆が志摩国の鳥羽城から三田城に3万6千石で替わってきた。明治維新まで約260年続いた九鬼時代の始まりである。 九鬼氏は紀伊国九鬼浦(現三重県尾鷲市九鬼町)から出た豪族で、九鬼嘉隆は織田信長に仕え毛利水軍を破り、名を挙げていた。関ヶ原の戦いでは嘉隆は西軍に、子の九鬼守隆は東軍に属して親子の争いになり、東軍の勝利後には父の助命を願い許されたが、父は自刃した後だった。戦功により守隆は鳥羽城で5万5千石の大名となった。守隆はその後も、大坂冬の陣では水軍を率いて海上封鎖し、また陸戦においても野田・福島の戦いで武功を挙げた。守隆が1632年(寛永9年)に亡くなると家督争いが起き、四男の九鬼久隆が継ぐことになったが、禄高を減らされ三田藩に移された。また三男の九鬼隆季には新規に2万石を与えられ、丹波国綾部藩の城主となった。『日本城郭大系』によると、禄高こそ宗家側が多かったが「幕府が守隆系を優遇し、嘉隆系を冷遇したことが理解できる」としている(系譜上は久隆も隆季も守隆の子で、いずれも嘉隆の孫であるので、守隆・嘉隆の2流に系統分けするのは正確ではない)。この時代、すでに水軍は必要とされなかった上に、新規築城は武家諸法度など幕法により認められなかったため、前領主の松平氏の居館を引き継ぐ形で、藩庁である「御館」を中心とした三田陣屋を本拠とした。三田陣屋には「大池」と呼ばれる池があり、水軍としての技術を忘れないため舟を浮かべて訓練したと伝えられている。また、10代藩主九鬼隆国は三田藩中興の祖ともうたわれ、蘭学への関心・理解が深く、のちに「日本の化学の祖」ともうたわれる川本幸民を抜擢・育成した。隆国は城主格に昇格したが、江戸幕府は引き続き居所を陣屋として扱った。最後の藩主九鬼隆義も洋学を進め、男子の服装を洋服に改めたりした。椅子、テーブルを使い、パン作りなど、藩を挙げて近代化に取り組んだ。
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