九鬼時代とは? わかりやすく解説

九鬼時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:43 UTC 版)

三田城」の記事における「九鬼時代」の解説

その後同年九鬼水軍で名が通っている九鬼久隆志摩国鳥羽城から三田城に36千石替わってきた。明治維新まで260年続いた九鬼時代の始まりである。 九鬼氏紀伊国九鬼浦(現三重県尾鷲市九鬼町)から出た豪族で、九鬼嘉隆織田信長仕え毛利水軍破り、名を挙げていた。関ヶ原の戦いでは嘉隆西軍に、子の九鬼守隆東軍属して親子争いになり、東軍勝利後には父の助命願い許されたが、父は自刃した後だった。戦功により守隆は鳥羽城5万5千石大名となった。守隆はその後も、大坂冬の陣では水軍率いて海上封鎖し、また陸戦においても野田・福島の戦い武功挙げた。守隆が1632年寛永9年)に亡くなると家督争い起き、四男の九鬼久隆が継ぐことになったが、禄高減らされ三田藩移された。また三男九鬼隆季には新規に2万石を与えられ丹波国綾部藩城主となった。『日本城郭大系』によると、禄高こそ宗家側が多かったが「幕府が守隆系を優遇し嘉隆系を冷遇したことが理解できる」としている(系譜上は久隆も隆季も守隆の子で、いずれも嘉隆の孫であるので、守隆・嘉隆の2流に系統分けするのは正確ではない)。この時代、すでに水軍は必要とされなかった上に、新規築城武家諸法度など幕法により認められなかったため、前領主松平氏居館引き継ぐ形で、藩庁である「御館」を中心とした三田陣屋本拠とした。三田陣屋には「大池」と呼ばれる池があり、水軍としての技術忘れないため舟を浮かべて訓練した伝えられている。また、10代藩主九鬼隆国三田藩中興の祖ともうたわれ蘭学への関心理解深く、のちに「日本化学の祖」ともうたわれる川本幸民抜擢育成した。隆国は城主格昇格したが、江戸幕府引き続き居所陣屋として扱った最後藩主九鬼隆義洋学進め男子の服装洋服改めたりした。椅子テーブル使いパン作りなど、藩を挙げて近代化取り組んだ

※この「九鬼時代」の解説は、「三田城」の解説の一部です。
「九鬼時代」を含む「三田城」の記事については、「三田城」の概要を参照ください。

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