男子の服装
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「西欧の服飾 (13世紀)」の記事における「男子の服装」の解説
男子の服装はシュミーズ(肌着)、コットなどのチュニック(上衣)、ブレー(ズボン)、ショース(靴下)、シュールコー(外衣)、マントル(外套)によって、一揃いとなっていた。 コットはノルマン人の農民の着ていた細く狭い手首の詰まった袖をもつチュニックを原型とした衣装で、ゆるやかな袖のブリオーよりも活動に向いていた。袖は、トルコ騎兵が着るドーラーマンと呼ばれる外套を真似て、袖付けが腰のあたりまで開いていて肘から手首までが細く腕にぴったり縫われた「ドルマンスリーブ」という型であった。袖は腕の形にぴったり合うように着用後に腕に沿って縫われていた。 シュールコーは、「タバード」ともいって鎖帷子の上に重ねて着る陣羽織のようなものが日常着となった物で、襟周りなどに毛皮を付ける豪華な外衣となっていった袖なしのものと袖のついたものがあるが、袖のついたものでも袖の下に穴が空いていてハンギングスリーブになり、腕を通せるようになっていた。シュールコーは装飾的な意味が強い衣装だが、長く緩やかな袖とフードがついた茶色か黒のウールで作られた厚手のシュールコーは「ガルドコール」とも称して防寒具として、また雨具として用いられた。これに似ているが、フードが付かず細い長袖がつくものは「エスクラヴィーヌ」という。 シュールコーと同時期に使われた上着には、「シクラド」や「ローバ」がある。シクラドは西ゴート族から伝わった服で、シュールコーに似るが胴のところが区切られている。ローバはアジアから伝わった服で、袖がなく腰を締めずに着て、襟ぐりに刺繍がある。 基本の構成は前時代と全く変わらず、衣装がより多様さを増したほかには本質的な違いはない。ただし、装飾についてはイタリアで捺染が考案されて以来、さまざまな柄を楽しむようになっていた。戦場での識別のために陣羽織などに紋章を描くことはよく行われていたが、日常着にも紋章を散らすファッションが生まれる。
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男子の服装
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「西欧の服飾 (14世紀)」の記事における「男子の服装」の解説
14世紀の初めに、イタリアから「大胆なコット」を意味するコタルディという新式のコットが持ち込まれ、都市の若者の間で流行している。コタルディにははっきりと決まった形はないものの、襟ぐりが広く開き全体的に丈が短く体にぴったりした従来よりも軽快で活動的な衣装であった。ブルフに挟みこんでいたショースも脚全体を覆うほど長くなり、腰から吊るすようになっている。 14世紀の半ばに、プールポアン(ダブレット)という前開きの刺子仕立てで腰丈の衣装が流行する。ショースは腰を覆うほど長くなり、プールポアンとショースをエギュイエットという紐で結んで吊り、股間にはブラゲット(コッドピース)という布を当てるようになった。これ以降、前開きの上着と脚衣の組み合わせが西洋男性服の基本となる。 14世紀半ばの衣服の特徴は、肩パッドや二の腕の膨らみ(ムフル)や胃のあたりの詰め物など体型を誇張したファッションである。このころ流行した袖の形として二の腕を膨らませたマオワトル(羊脚型)袖がある。脚の貧弱な男性に至ってはふくらはぎにも詰め物がされることがあった。男性の衣服が体の線をはっきりと出すものになってから、男女の身体の違いが強調されるようになっていく。 また、ミ・パルティという身頃を二分割にする装飾もこのころ流行する。
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男子の服装
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「西欧の服飾 (15世紀)」の記事における「男子の服装」の解説
この時代、中世的な建築物を思わせる大仰な衣服が隆盛すると同時に、イタリアから始まるルネッサンスの流れで生まれた開放的で軽快な衣服が流行し始めている。
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