主な布施屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 16:50 UTC 版)
行基の布施屋 奈良時代の高僧・行基が布教のため全国を巡った際に造ったと伝えられる。 その数は山城国2ヶ所、摂津国3ヶ所、河内国2ヶ所、和泉国2ヶ所、備後国1ヶ所の10ヶ所に上るという。 代表格である昆陽布施屋(こやのふせや)は天平3(731年)に摂津国川辺郡に開設された。 現在の兵庫県伊丹市寺本にある昆陽寺の元になったといわれている。 東大寺布施屋 天平宝字5(761年)に大和国十市郡に開設。 旅行者だけではなく寺で労役を科せられていた人々のための施設でもあったという。 悲田処 天長10(833年)に武蔵国多摩郡と入間郡の境界付近に開設。武蔵国府、のち朝廷による官営。 六国史である『続日本後紀』に設置経緯が掲載されており、全国の布施屋の中では最も知名度が高い。 詳しくは悲田処の項を参照。 続命院 承和2(835)年以前に九州(国名不明)に開設。大宰府による官営。 『続日本後紀』承和2年12月3日條によれば、刑部卿の小野岑守が以前大宰大弐であった頃に開設し、墾田百四十町をもってその運営に当てたという。 場所は筑前国説と豊前国説があり、前者は福岡県筑紫野市、後者は福岡県京都郡みやこ町犀川地区(旧:京都郡犀川町)に比定されている。 なお東京都江戸川区にはこの続命院の後継を称する「證大寺」という寺が存在する。 救急院 承和11(844年)に相模国高座郡と愛甲郡に開設。相模国府による官営。 相模介であった橘永範が自分の俸給である稲一万束をもって開設したと伝えられる。 六国史に記録はないが平安時代の法令集『類聚三代格』に記録が残り、開設から4年間で1158人を救護したと伝えられている。 場所は現在の神奈川県厚木市と海老名市。 墨俣河の布施屋 承和2(835年)に太政官符より、墨俣川(現在の長良川)の両岸美濃と尾張に設けるように発令された。 『類聚三代格』に記録が残り、東海道・東山道を対象に増艘と架橋、布施屋の設置を命じられた際のもの。大安寺(奈良の大安寺と思われる)の僧である忠一に任され、国司と講讀師(国分寺に設置された上座の僧侶、講師のことと思われる)らと共に修造され、国司と講讀師によって管理された。通行する者の布施屋料や通行料の負担がみられる。 大道ではなかったが、租庸調のために人々で混雑したことを窺い知ることができる。東海道の代わりに利用されることが多かったためである。 美濃側の場所は、現在の岐阜県大垣市墨俣町下宿、上宿あたりと思われる。
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