三十年戦争のシュリースハイム
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「シュリースハイム」の記事における「三十年戦争のシュリースハイム」の解説
フリードリヒ5世とエリザベス・ステュアートとの結婚でシュリースハイムには、フリードリヒが花嫁を連れてくるための馬車の仕上げを任され、わずかに輝きがもたらされた。この馬車は、1619年にフリードリヒがベーメン王に選ばれ夫妻がプラハに赴く時にも用いられた。 シュリースハイムの人々は悪い兆候を感じ取り、万一戦争が起こった時には早く発見できるよう1619年にブラニヒに見張り小屋を建てた。1621年にティリー伯の率いるカトリック連盟軍が北からハイデルベルクに向かって攻め込んできた、シュリースハイムはその途中にあたる。11月、シュリースハイム=ドッセンハイム=ラーデンブルクの地域に約1万人が宿営した。この戦いでは最終的にはハイデルベルクが占領され、1622年に軍勢はこの地域を通って引き上げていった。この街では数人の若者が亡くなり、あらゆる所から戦費を掻き集め、略奪を受け、いくつかの建物が破壊された。鐘も戦利品としてバイエルンへ運ばれた。しかし備蓄のほとんどがそのまま使えたため、損害はすぐに解消された。 しかし、隊列から落後して略奪行為を働く兵士達の小軍勢がこの地方を横行していた。1625年から1626年には発疹チフスが蔓延し、犠牲者がでた。1631年、再び北から軍勢が迫ってきた。今度はプロテスタントのスウェーデン軍であった。1631年9月中旬、バイエルン軍はハイデルベルクから出撃を敢行し、シュリースハイムを侵略すると、再びハイデルベルクに引き上げた。この侵略の後、シュリースハイムは、単なる煙を吐く瓦礫の山と化した。ほとんどの家や教会は焼かれ、カンツェルバッハ川沿いに建ち、水がすぐに手に入った建物だけが炎から救い出された。これに野盗と化した軍勢が周辺を荒らした。 1635年にペストが発生し、ただでさえ少なくなっていた住民の相当な部分の生命を奪った。今回の再建はきわめて緩慢なテンポであった。備蓄は使い尽くされ、制限の多い生活や経済活動に可能性は見いだせなかった。ブドウ畑と森に避難させておいた家畜だけがかろうじて生き延びる術となった。 1643年にロトリンゲン軍が到来し、この街に再び戦争をもたらした。1644年に帝国軍、1645年にテュレンヌが率いるフランス軍がこの地域を跋扈した。大きな戦闘はなかったものの完全に盗賊化した兵士達自身が大きな脅威であった。シュリースハイムでの残虐行為についての記録はないものの、住民達が1644年にこの街を放棄しその後何年間も身を潜めていたことが何より雄弁に残虐さを物語っている。住民達は近くの森に隠れたり、周辺の被害の小さな村に逃れたりした。平静な日には周辺の村から生き残った人が現れ、自然のままに生い茂ったブドウ山や耕地から収穫を持って行った。 1648年に和約が結ばれ、散り散りになっていた生き残った住民が再び村に帰ってきた。だがその多くは土地と壊れた家を受け継いだだけで、家畜も種も建築資材も持ってはいなかった。このため、彼らは土地や地所を移住者に売り払い、自らは再び復興に身を投じた。住民は三十年戦争前の20%以下になっていた。ただしその後、少なくない数のプロテスタント系スイス人が移住してきたため、人口は再び急速に増加していった。およそ1世紀で、かつての人口にまで回復したのである。
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