三人娘の時代とは? わかりやすく解説

三人娘の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:41 UTC 版)

美空ひばり」の記事における「三人娘の時代」の解説

1954年、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦初出場した。1955年には江利チエミ雪村いづみとともに東宝映画ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気博し親交深める1956年ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズ小野満婚約その後、この婚約破棄となった。初の那覇 公演沖縄東宝行い1週間5万人を動員離島からのファン那覇港は大混雑した1957年1月13日浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院緊急搬送されて入院した現場居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女取り押さえられ警察引き渡された。犯人少女はひばりの熱烈なファンだったという。この事件切っ掛けにひばりは田岡ボディーガード要請し代わりに興行権神戸芸能社委ねるその後歌舞伎座公演復帰奇跡的に顔に傷は残らなかった)。また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦3年ぶりに出場し出場2回目にして渡辺はま子二葉あき子ベテラン歌手抑えて初め紅組トリ大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期迎えていた。 1958年4月1日山口組三代目田岡一雄正式に神戸芸能社看板掲げた同年4月美空ひばり神戸芸能社専属となり、同年6月にはひばりプロダクション設立して副社長田岡一雄就任した同年7月東映映画出演専属契約結んだ。『ひばり捕物帳シリーズや『べらんめえ芸者シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など、東映1950年代後半から1960年代にかけてタイトルに"ひばり"を冠した映画13本製作、続々ヒット映画にも恵まれた1960年から始まったべらんめえ芸者シリーズでは二作目以降岡田茂頼まれ高倉健相手役として迎えた。『べらんめえ芸者シリーズというのは、笠原和夫笠原良三脚本始まったもので、笠原和夫脚本家デビューしてすぐに美空ひばり主演映画を書くという幸運に恵まれ東映調の娯楽映画スキル磨かれた。ひばりは東映専属契約結んだ1954年から1963年まで10年間、多く時代劇チャンバラ映画主演し東映時代劇の黄金期支え歌手であると同時に映画界銀幕スターとして人気得た専属期間だった10年間だけで、東映でのひばり出演作102本に及ぶ。ひばりは「岡田茂さんは東映時代恩人岡田さんなくしては映画俳優として自分存在はなかった」と話し岡田茂は「美空ひばり東映女優の中で、会社にとって最も重要な役割果たした」「錦之助さんともども東映土台作った偉大なスター」と評している。今日、ひばりの映画女優として側面には必ずしも多くの光が当たっているとはいい難いが、生涯150本を超える映画出演し、そのほとんどが主演という、戦後代表する映画女優であった1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界女王」の異名をとるようになった

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