一人っ子政策のきっかけと展開
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「一人っ子政策」の記事における「一人っ子政策のきっかけと展開」の解説
1972年12月天津市に住む、女児1人を持つ1女性工場労働者が、「生産と建設のため、もう男の子を欲しがりません」と宣言し、これを伝え聞いた天津医学院の女性教師44人の連名で、「一人っ子提議書」が出されたことがきっかけである。翌1979年1月26日全国計画出産弁公室主任会議が開催され、ここで初めて全国レベルでの一人っ子政策の基本路線が検討された。この会議の直後、「一人っ子証(独生子女証)」が天津市や四川省で試行され始めた。そして同年8月22日公布の「上海市革命委員会の計画出産推進に関する若干の規定」が最初の条例となった。その後以下の4段階で推進された。 1979年から1984年までの第1期は、1979年の全国計画出産弁公室主任会議に始まり、1980年の「公開書簡」によって国策として本格的に軌道にのせた時期である。制度出発当初、第2子の出産条件についての明記がなかったが、1981年頃になると、以下の特殊事情の3条件が全国に共通して示された。<1>第1子が非遺伝性の身体障害者で働けない場合、<2>再婚で一方に子があり、他方が初婚の場合、<3>長年不妊で養子を迎えた後で懐妊した場合、それぞれの該当者は、申請して許可を受けた場合に計画的に第2子を産むことができる。いずれにしても第3子を産むことは許されない。なお少数民族に対しては、計画出産は奨励するが、第2子を産む枠は拡大されている。 1984年から1985年までが第2期にあたる。1984年8月にメキシコで国連の国際人口会議が開催された。アメリカ合衆国のロナルド・レーガン政権が強制妊娠中絶・女嬰児殺害の手段で人口を削減しているとの見地から中国政府を批判し、国際連合人口基金への援助停止を決定した。このような国際世論への配慮に加え、農村では厳しい政策の実施は困難であることから第2子の出産条件の拡大・緩和策に転換した。具体的には、「農村で女子1人しか出産しておらず、困難があることが確認され、第2子の出産を望む」場合が追記され、男子労働力の確保、家の継承や老人扶養という伝統的思想がなお残存する農村で第2子出産を認めた。 1986年から1987年が第3期にあたる。農村では第1子が女児で政策どおりの実施に困難がある場合に4年の出産間隔をおいて、第2子の出産を許可することが浸透していった。男子労働力の確保への願望は、家族単位での農業経営にあたる機会が増える「生産責任制」導入後いっそう強まった。農村での出産政策の調整を全国的に広げて行った。 1987年以降が第4期にあたる。全国的に各地区レベルの「計画出産条例」を制定・改定していった確定整備期である。
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