ロッテ・西武時代
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南海退団直後の1977年11月17日、金田正一監督率いるロッテが獲得の意思を示し、選手として移籍。懇意にしていた草柳大蔵からの「生涯一書生」という禅の言葉を教わり、新たに「生涯一捕手」を標榜した。この言葉は流行語となり、今でも野村の代名詞の一つとなっている。金田は野村を戦力としては期待しておらず、野村の豊富な知識と経験、長年にわたって蓄積したデータを丸ごと手に入れることが獲得の目的だったと言われる。また金田は同時に江夏の獲得を臨み、実際に野村を介して江夏にロッテ移籍を打診するも、江夏が金田の下でプレーすることを拒み、破談。野村は代替案として柏原獲得を進言するも、金田が拒否し、結局野村単独での移籍となった経緯がある(但し前述の通り、高畠は打撃コーチとして野村と共にロッテへ移籍)。当時ロッテの投手だった村田兆治は「足の遅い私にとっては鈍足の野村さんは憧れの選手」、また村田によると「野村さんは川勝オーナーが金田監督に頼んでロッテへ移籍してきた」と述べている。ロッテの一選手として親子ほど歳の違う選手と一緒に練習をしていると、何とも言えない虚しさを感じたという。ところが金田から「若手らにいろいろ教えてやってくれ」と言われアドバイスするとコーチ陣から煙たがられ、金田から「コーチがやりにくいと言っている。悪いが、教えるのはやめてくれ。」と言われた。同年オフ、ロッテのオーナー重光武雄から「監督をやってくれませんか」、「ロッテを君に再生してもらうしかないんだ。本当の野球を教えてくれ」と言われ監督就任を要請されるが、金田が誤解すると察し、固辞し、同時に自由契約となる。ロッテは野村への監督要請を打ち切った翌日に山内一弘の監督就任を発表している。 1978年12月1日、根本陸夫監督率いる西武へ移籍。全体の練習スケジュールから1人だけ外れ、バットを握ることもなければ、ブルペンに座ることもなかった。プロ6年目の外野手で、キャンプで同室であった春日昭之介が、そのノートを目撃している。そこには実験レポートのように箇条書きで何らかの数字がズラッと列挙されていた。その数字は、ほかの選手より3分の1ほど少ないキャッチボール数、ランニング量、受けたノックの数、さらには誰もいないサーキット場で黙々と励んだウエートトレーニングの回数であった。1979年には、アンダースローからストライクゾーンの高めへ速球を投げ込んで勝負していた松沼博久に「ボールのイメージで投げろ。振ってくれるから」とアドバイス。実際に打者のバットは空を切り、それによって低目へのシンカーも効果を発揮するようになったという。1980年は控えに回ることが多くほとんど目立った活躍はなかったが、オールスターゲームには全パ・西本幸雄監督の推薦により出場。1950年代、1960年代、1970年代、1980年代の4つの年代での出場は史上唯一の記録である。また、選手として22回のオールスター選出は歴代最多。このうち1957年から1977年まで21年連続でファン投票選出されており、ファン投票選出回数、連続選出回数ともに王貞治と並ぶ歴代最多記録となっている。同年8月1日に前人未到の3,000試合出場を達成。同年11月15日に引退を表明、実働26年、45歳だった。最後の本塁打は7月29日の対阪急戦で放ったもので、このとき45歳1か月、岩本義行の持つ最年長本塁打記録(45歳5か月)に4か月及ばなかった。出場試合数は3017試合まで伸ばし、この記録は2015年に谷繁元信に抜かれるまで35年間、歴代1位だった。
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