ライヒ宰相
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「ベルンハルト・フォン・ビューロー」の記事における「ライヒ宰相」の解説
1897年6月21日、ビューローはヴィルヘルム2世と話すためにキールへ行くよう指示する電報を受け取った。途中、列車を乗り換える際にフランクフルトに立ち寄り、フィリップ・ツー・オイレンブルクと話をした。オイレンブルクは、ヴィルヘルム2世が新しい外務大臣を望んでいることを説明し、かつて自分の父親が務めていたこのポストに就くようビューローに促した。また彼は、賞賛に生き、反論を許さないヴィルヘルム2世をどう扱うべきかというアドバイスも伝えた。ベルリンでビューローは、まずドイツ外務省政治局長のフリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタインに相談した。ホルシュタインは、現長官であるアドルフ・マルシャル・フォン・ビーバーシュタインにはこのままのポジションに居てもらいたかったが、皇帝は彼を交代させる決心をしており、後継者にビューローを希望していると進言した。老齢のため引退を切望していたクロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト宰相は、自分の後を継いで宰相になることを視野に入れ、ビューローにその地位を得るように促した。ビューローは、ホーエンローエにできる限り任期を続けるよう促した。 6月26日、ビューローは皇帝と会談し、戦争を引き起こすことなくイギリスを相手にできる世界的な艦隊の構築に着手することが新長官の主要な任務のひとつであると進言した。ビューローはこの申し出を検討したが、8月3日、これを受諾した。2人は良好な協力関係を築いた。ビューローは、前任者たちのように皇帝ヴィルヘルム2世に反対するのではなく、時に、皇帝の記憶力の悪さと頻繁な意見の変化を内心頼りに、皇帝の指示を無視して自分が最善と考える行動をとり、あらゆる事柄について彼に同意していた。国務長官のポストはライヒ宰相の下位にあり、ビスマルクの宰相時代には名目上の役職でしかなかった。ビューローのもとではそれが大きく覆され、ホーエンローエはビューローに主席顧問のホルシュタインとともに外交問題を管理させることにした。ヴィルヘル2世は毎朝ビューローのもとを訪ね、国政について話し合ったが、それ以外宰相と顔を合わせることはほとんどなかった。 1900年10月16日、ホーエンローエ・シリングスフュルスト侯爵の引退に伴い、後任のライヒ宰相に任命される。宰相としての最初の業績は、外交の大家たる堂々とした駆け引きでライヒ議会を抑えつつ、清への帝国主義的侵略を推進したことである。ビューローはしばしば、ライヒ議会で政府の外交政策を擁護することに時間を費やした。これは、ヴィルヘルム2世の多くの失敗を隠すためでもあった。1905年6月6日ヴィルヘルム皇太子の成婚を記念して侯爵に陞爵した。 1906年4月5日ライヒ議会に出席中、過労とインフルエンザのため倒れる。1ヶ月後、公務に復帰するが、この頃同性愛の疑いを掛けられるなど、スキャンダルに見舞われる。この事件はさほど、政権にとって打撃にならなかったが、1908年10月28日ヴィルヘルム2世は、イギリスの新聞「デイリー・テレグラフ」のインタビューでドイツの内政と外交について語ったが、その侵略政策的な内容によって内外から激しく批判された(デイリー・テレグラフ事件)。 ビューローは責任をとって辞任を表明するが、その実、内外の批判を利用して皇帝の行政権を制限することに成功した。ビューローは、世界政策と海軍拡張政策はそのまま推進したため、財源を確保するため議会に新税導入を盛り込んだ予算案を提案したが、議会によって否決される。1909年7月14日辞任が承認され、後任にはテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークが就任した。
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