ライヒ裁判所長官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 00:28 UTC 版)
「ヴァルター・ジモンス」の記事における「ライヒ裁判所長官」の解説
1922年10月16日、ジモンスは最高裁判所であるライヒ裁判所長官に任命された。在任中の1925年2月28日に大統領フリードリヒ・エーベルトが死去し、3月12日にはヴァイマル憲法第51条の規定により大統領代行に就任した。同月29日に実施された大統領選挙では過半数を獲得した候補者がいなかったため、第2回投票の際にはジモンスが大統領候補に浮上したが、彼は立候補を拒否している。5月12日に第2回投票で当選したパウル・フォン・ヒンデンブルクが大統領に就任したため、大統領代行の職務を離れた。 1926年にはライプツィヒ大学の国際法名誉教授となり、同年にドイツ国際法協会会長に就任した。11月には「ドイツ司法の危機」と題した声明を発表し、右派勢力を抑圧するドイツ社会民主党とドイツ民主党を「ドイツ国家の信頼性の危機」と批判した。また、フーゴ・ジンツハイマー(ドイツ語版)、ロベルト・ケンプナー(ドイツ語版)、フリッツ・バウアー(ドイツ語版)、エルンスト・フレンケル(ドイツ語版)など共和国裁判官協会(ドイツ語版)に所属する裁判官が社会民主党員として階級闘争優先の判決を出していることを批判した。ジモンスの批判に対し、司法大臣グスタフ・ラートブルフは「下からの社会民主主義的階級闘争よりも有害な、上からの階級闘争」と述べている。このため、ジモンスは左派勢力の反感を買い、社会民主党支持者から襲撃された。 1928年にドイツ国営鉄道の取締役員任命を巡りヒンデンブルク、首相ヘルマン・ミュラーと対立した。また、政府による司法の干渉に反発し、翌1929年にライヒ裁判所長官を辞任した。
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