司法の危機
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司法の危機では、青年法律家協会に所属する裁判官に対する再任の拒否にまつわる一連の出来事について概観する。
新左翼の活動が活発化する中、マスメディアは青年法律家協会は左翼系団体であり、多数の裁判官会員が存在していると批判的報道を行なった。司法への不信感が発生する中、戦後、再任を拒否された裁判官11名のうち[1]、1971年3月31日に熊本地方裁判所の裁判官が再任を拒否された件や司法修習生の任官拒否は、青年法律家協会に所属する裁判官に対する思想を理由とした人事であろうという批判が巻き起こった。これに対し最高裁判所は、国会などでその主張を否定している[2]。これら一連の出来事は「司法の危機」(しほうのきき)と呼ばれていた[3][4]。岩瀬達哉は青法協の裁判官部会に加盟していた裁判官に対する差別人事があったとして「レッドパージ」になぞらえて「ブルーパージ」と呼んでいる[5][6]。
概要
1960年安保闘争[7]の安保条約改定阻止法律家会議を構成する組織の1つが青年法律家協会(青法協)であった[8]。1957年、青年法律家協会は司法修習生(九期)を会員にむかえるようになり、1963年6月、青法協裁判官部会発足(会員数約140名)[9]。その頃の青法協議長はのちに日本共産党から参議院議員となる近藤忠親弁護士であった[10]。
1967年羽田事件、1968年1月佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争等、新左翼の活動が活発化する中[11]、右派の雑誌『全貌』1967年10月号は「裁判所の共産党員」特集を組み、雑誌『経済往来』は青法協の中華人民共和国訪問や容共団体的性質があると報道[12]、『日経連タイムズ』9月28日号は青法協は左翼法曹人養成機関であり、思想的浸透と偏向判決への影響があると報道[9]、1967年11月1日衆議院法務委員会で自由民主党森山欽司衆議院議員は裁判所職員等で構成される全司法労働組合の左派的活動問題をとりあげた[13]。
1968年7月、全貌社は青年法律家協会に裁判官230名司法修習生約400名が所属し裁判所の外からは左翼活動、内からは人事でハサミ撃ちしていると報道[14]。8月、自由民主党機関紙『自由新報』は「偏向裁判は行われている?青法協があやつる公安労働事件」と報道した[9]。その頃、日大紛争、明大紛争、神田カルチェ・ラタン闘争、新宿騒乱発生。社会運動参加者への検察による拘留請求が地裁で却下され再び社会運動へ参加して拘留請求され却下される繰り返しとなり、不満は高まった[15](以下、時代背景として新左翼の主な活動も併記)。
1969年1月11日、石田和外最高裁長官就任。その頃の青法協議長は後に日本社会党から衆議院議員となる佐々木秀典弁護士であった。19日、東大安田講堂事件発生。
1969年5月13日、自民党は東京都教組事件最高裁判決に対し司法制度調査会を設置、最高裁は司法の独立を守るため岸盛一事務総長名で反論した[16][17]。
長沼ナイキ事件
1969年9月14日、長沼ナイキ基地訴訟札幌地方裁判所裁判長へ札幌地方裁判所所長が「国の裁量権を尊重するように」と書いたメモを地裁裁判長が公開、裁判干渉だという批判が起き、9月15日、札幌地裁裁判官会議は所長を厳重注意処分、裁判長を注意処分とし、9月20日、最高裁判所臨時裁判官会議は裁判所法80条に基づき所長へ注意を与え東京高裁判事として転任させた[18]。
1969年9月21日、森山欽司議員が札幌地方裁判所裁判長は青法協会員であり問題があると発言、鹿児島地家裁所長は国民協会機関誌10月1日号で裁判官が反体制的法律家団体である青法協に加入しているのは大問題であり、最高裁は脱会勧告を出すべきだと述べ、10月8日各新聞社の紙面でも公開され、10月14日福岡高裁は所長を厳重注意とした[18]。青法協は反論、マスコミ各社は裁判官の団体加入批判を展開(昭和44年10月13日朝日新聞社説、16日毎日新聞社説等)、1969年11月5日、全貌社は青法協会員裁判所職員の名簿を出版[19]。1969年11月頃から1970年夏頃まで青法協会員裁判官への脱会勧奨が行われたという[9]。同年9月、赤レンガ闘争発生。
任官拒否
1970年4月、青法協会員2名を含む3名の司法修習生の任官拒否は思想を理由としたものであろうという批判が起きた[9]。4月8日、岸盛一事務総長の談話という形式で最高裁の公式見解が示された。
裁判官の任用について、差別待遇があると二十二期司法修習終了者代表が主張しているが、裁判官志望の某君らが不採用になった理由は、人事の機密に属することなのでいっさい公表できない。ただ、同君らが青法協会員であるという理由からではない。一般的な問題として、裁判官はその職責上、特に政治的中立性が強く要請されているのは当然である。これと同時に裁判は国民の信頼の上に成立っており、裁判官は常に政治的に厳正中立であると国民に受取られるような姿勢を堅持することが肝要だ。裁判官が政治的色彩を帯びた団体に加入していると、その裁判官の裁判がいかに公正であっても、その団体の活動方針にそった裁判がおこなわれたと受取られる恐れがあり、裁判が特定の政治的色彩に動かされてはいないかとの疑惑を招く。裁判は内容が公正でなければならないだけでなく、国民から公正であると信頼される姿勢が必要であり、裁判官は各自が深く自戒し、いずれの団体にせよ、政治的色彩を帯びる団体に加入するのは慎むべきである — 最高裁判所岸盛一事務総長(談話)、最高裁長官の戦後史,1985.[20]
1970年5月2日、石田和外最高裁長官が……極端な軍国主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者は、その思想は憲法上は自由だが、裁判官として活動することには限界がありはしないか。法律的な意味でなく、常識的にいうと道義的には国民から認容されないのではないか……[21]
とコメント、賛否両論の議論が起こった。同年3月、よど号ハイジャック事件発生。
1970年9月5日、奥野健一元最高裁判所判事は青法協は実質的に日本民主法律家協会と同じ性質の組織であるとの判断を示し、……だから裁判官は憲法99条で憲法を尊重するという義務があるのですから、自分の信念、思想、良心がどうしても現行憲法と矛盾するということになると、裁判官を退くべきだと思うのですね。「この憲法のとおりにやることが出来ない。」という信念を持っておるとするならば、「それを器用に使い分けるということは出来ないのではないか。」と石田君が言っておるのも無理のないところもあるのではないかと思いますね……
との見解を示した [22]。
また、橋本公亘中央大学教授は……共産党規約の前文によれば、「党の目的は……人民の民主主義革命とひきつづく社会主義革命を経て、日本に社会主義国家を建設し、それを通じて高度の共産主義社会を建設し、それを通じて高度の共産主義社会を実現することにある。」すなわち、革命を標榜している団体であることは間違いないのです。暴力政党であるかどうかということは、今度の大会で否定しておるわけですけれども、その決議を見てみますと、「人民の政府ができる以前に、反動勢力が民主主義を暴力的に破壊し、運動の発展に非平和的障害を作り出す場合には、広範な民主勢力と民主的世論を結集して、このようなファッショ的な攻撃を封殺することが当然の課題となる。」といっています。人民政府が出来る以前でも実力行使をあえて辞さないということをはっきり書いてあるわけです……その裁判官は、裁判官の法的義務と党員の義務の衝突に悩まされることになると思うのです。すなわちその両者の義務は両立しない……
との見解を示した [23][24]。
小林俊三弁護士は……裁判官になった以上は、裁判官としての自から公正であるという主観的な信念自負ばかりでなく、前にも出ましたけれども、外から見ても正しく見えなければならない。公正らしく見えなければならないということになります……[25]
との見解を示した。
1970年10月、裁判官訴追委員会が、青法協会員であることなどを理由に民間から訴追請求されていた裁判官213名に対し、青法協加入の有無を調査し、批判が起きた[9]。同年6月23日、日米安保条約自動継続となる。8月、東京教育大学生リンチ殺人事件発生。
1970年12月22日、鹿児島地家裁所長公開質問状事件が発生、所長による思想調査であるという批判が起きた。所長は解職処分となり裁判官を辞任した[9]。
1971年1月22日~26日、司法行政事務協議会において、裁判官の青法協加入問題が議論されたと伝えられているという[26]。同年2月、真岡銃砲店襲撃事件発生。
再任拒否
1971年3月31日、青法協会員裁判官5名が再任官を希望したが、最高裁裁判官会議で熊本地裁判事補1名の再任が拒否された。その理由は人事の機密を理由に公開されていない。青法協会員であるという理由だけではないと説明されている[27]。また、二三期司法修習生7名が任官を拒否され、4月2日、法務省は1名の検事任官希望を拒否した[26]。通説では、ハト派の裁判官を含めて最高裁裁判官会議において異論は無かったという[28]。抗議した司法修習生が罷免されたが、のちに再採用となっている[29]。
後日、松本正雄元最高裁判事は当時の様子を下記のように述べている。
「坂口君が青法協のメンバーであることを特に問題にしなかったのは事実です。品位をはずかしめた行動自体が問題になったのです。判事補の再任問題は、裁判官会議にかけられる名簿のうち何人かが問題になり、その中に宮本判事補が入っていました。これも、青法協のメンバーだからということではありません。最高裁は結局、理由を示しませんでした。」
-そうです。あの措置はいまも当然だと思われますか。
「ええ、決はとりませんでした。極端に対立すると決をとらざるをえませんが、そういう状況ではありませんでした。司法修習生の問題は、卒業できないのはかわいそうだという気持ちがありましたが、結局は復活の道は開かれました。」 — 松本正雄元最高裁判事、[30]
「そう思います。……しょっちゅう電話、電報があり、大衆運動化していました。夜中にかかってくるのも随分あり、しまいには電話をはずしてしまったこともあったくらいひどいものでした。」
-裁判官会議では激論はなかったといえましょうか。
「そのときはたいした議論はなかったといっていいでしょう……」
-そうしますと、決をとるという形ではなく落着したということで・・・・・・。
1971年5月、中村治朗東京高裁判事が論文「青法協問題と裁判官の思想・信条の自由および言論・結社の自由について」を発表、裁判所部内で広く流布されたという。青法協の政治性、裁判官の中立性への倫理的義務と適性、裁判官の青法協脱退要望、裁判官の青法協加盟がもたらす政府与党の司法への圧力行使への誘因性を説いた[31][32]。同年8月、朝霞自衛官殺人事件発生。
後日、石田和外元最高裁長官は…青法協は、青法協だけではないですね。外部の勢力に結びついていく。そういう団体には、裁判官はモラルとして所属すべきでない……これは右翼団体だって同じです。……誰からみても、中正であるという態度を裁判官はとるべきだと、絶えず考えてきたわけです[33]
と回想。
色川幸太郎元最高裁判事は青法協はいまは不活発だが、あのころまでは派手な政治活動をやっていましたね。決して純然たる研究団体ではありません。いまは変わってきているかもしれませんが、あのころは政治的色彩の濃厚な団体だった。裁判官が衆をたのんで司法行政にくちばしをいれるなんていうことは、最も厳に慎むべきことです。[34]
と語った。
横田正俊元最高裁長官はいろいろの見方があるでしょうが、(※青法協は)問題はないと思います[35]
と述べた。
小川信雄元最高裁判事はしかし、とにかく青法協に入ってる裁判官がいろいろと勉強することは結構だが、政治活動や社会運動をして、裁判官の公正に対して世間から疑いをもたれることはよくない、それだけは慎んでもらいたい、そういうふうにしか私は受け取りませんでした[36]
と述べ、下田武三元最高裁判事はたとえ青法協であっても、それだけでは落とせませんからね。……判事補は青法協ではなかったでしょうが、彼でも立派に採用されて、あとになって不適格だったとわかるんです[37]
と語った。
横田喜三郎元最高裁長官は、青法協は次第に勢力を強めてきたのである程度用心しなければならない雰囲気だったが、まだ初期の頃で必ずしも共産系の人と同一歩調をとっていたとは感じなかったとコメントした上で下記のように語った。
裁判官の政治的中立性については、これは絶対的です。裁判官は、政治的に、絶対に中立でなければなりません。そうして、あくまで法律に忠実でなければなりません。法律そのものに従って、法律そのものをそのままに適用するようにしなければなりません。イギリスに、裁判官は法律の口であるという諺があります。法律の口であり、法律そのものがものをいうのであって、裁判官がいうこと、決定することは、法律そのものがいうこと、法律そのものが決定することである、という意味であります。裁判官の口は、裁判官である人間の口ではなく、裁判官である人間がものをいい、法律そのものが決定する、というのです。決して政治的に法律を解釈したり、決定したりしてはならない、ということです。これは裁判官として絶対なことで、すこしでも政治的に解釈したり、決定したりするならば、それはもう裁判官としての資格がなく、裁判官ではない、というわけです。このことは、いくら強調しても、強調しすぎるということはありません — 横田喜三郎元最高裁長官、[38]
1971年9月11日共闘組織「司法の独立と民主主義を守る国民連絡会議」九段会館にて結成。呼びかけ人は末川博、市川総評弁護団議長、成田社会党委員長、野坂日本共産党中央委員会議長他十六名[39]。同年9月16日東峰十字路事件、11月渋谷暴動事件、12月関西大学構内内ゲバ殺人事件、新宿クリスマスツリー爆弾事件発生。1972年にはあさま山荘事件、テルアビブ空港乱射事件、早稲田大学構内リンチ殺人事件発生。1973年5月19日石田和外長官退官後の1974年には連続企業爆破事件が発生する。
1976年4月、二八期任官内定説明会にて1970年と同じく青法協は政治的色彩を帯びた団体という見解が示されたという[9]。
1984年1月に青法協の組織内から裁判官組織は消滅し、青法協への賛同を続けた裁判官らは如月会を結成した[40][41]。
参考文献
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- 山本祐司『最高裁物語(上)』講談社+α文庫、1997年。 ISBN 9784062561921。
- 山本祐司『最高裁物語(下)』講談社+α文庫、1997年。 ISBN 9784062561938。
- 中井憲治「剣道の国際普及に関する一考察」『仙台大学紀要』51, 2、、仙台大学、2020年、65-79頁。
- 帝国秘密探偵社「矢野一郎」『大衆人事録』第10版、帝国秘密探偵社、1934年、13頁。
脚注
- ^ 第65回国会 衆議院 法務委員会 第22号 昭和46年5月21日矢口最高裁判所長官代理者(008)(PDF) - 国会会議録検索システム008矢口洪一最高裁判所長官代理者「まず三十二年でございますが、この際には五人の不再任がございました。その次に三十三年で一名の不再任の方がございました。三十四年で一名ございました。その後しばらくございませんでしたが、四十三年に一名、四十四年に二名ということで、四十五年はございませんでしたが、四十六年、本年にまた一名の不再任があったということでございます。」
- ^ 第65回国会 衆議院 法務委員会 第22号 昭和46年5月21日吉田最高裁判所長官代理者(042)(PDF) - 国会会議録検索システム042吉田最高裁判所長官代理者「そこで、そうでありますのに、社会の一部では、第一、第二の問題につきましては、最高裁判所が同君らの思想、信条、青法協という団体加入を理由に再任と新任を拒否したものであるとか、あるいは最高裁が政府や与党に癒着して、その政治上の主義または施策に反対するものを裁判官から排除するものであるとか、あるいは司法行政が裁判の独立を侵すものであるとか、そういったことを主張いたしまして、最高裁に対し再任せよ、いわゆる採用せよ、こういう議論がございます。しかし、こういう議論はいま申しました最高裁判所の真意を正しくくもうとせずに、憲法によって裁判官の人事を含む司法行政をまかせられておりますそういう権限と責任を有します最高裁判所が行ないました具体的な人事について、誤った事実を前提として不当な批判を加えるものであって、最高裁判所の司法行政に対する干渉の疑いがあり、ひいてはかえって司法権の独立を害するおそれがある。」
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- ^ 思想の自由は憲法が保障しており、憲法を否定するような思想を持っていてもそれ自体は不当ではない。しかし、裁判官は一般国民とは違う。憲法を擁護しなければならない。憲法、法律の精神を生かし、法律を解釈して裁判するという能動的な立場にある。極端な軍国主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者は、その思想は憲法上は自由だが、裁判官として活動することには限界がありはしないか。法律的な意味でなく、常識的にいうと道義的には国民から認容されないのではないか。憲法を是認し、それにそったものでなければ少なくとも道義的に好ましくない。いまの段階では憲法を守り利用するが、実際はカムフラージュで、究極的には否定するという考えもあるが、これも憲法を否定するものと考えなければならない。 裁判官は法律と良心に従って裁判するが、ここでいう『良心』とは思想、人生観など全人格を意味するもので、裁判官が自分の思想と裁判とを切り離すような器用なことはできない、と思う|石田和外最高裁判所長官|最高裁長官の戦後史,1985.野村, 二郎 (August 1985). 最高裁長官の戦後史. 権力者の人物昭和史. 5. ビジネス社. pp. 120-121
- ^ 「これは「青年法律家」という冊子で、「24期司法修習生歓迎特集号」などというものを出しているけれども、これにはどういう活動を青法協がやったかということを詳しく書いていますが、これには、憲法の改悪を阻止するために3分の1を下らない新しい革新政党を作らなければならないとか、安保改定阻止運動にどういうふうな戦いをやり、あるいは国民の啓蒙運動をやったかというようなこととか、アメリカのベトナム侵略を強化し、核戦争の脅威が現実化しておる状態で、日本がそれに協力するのを阻止しなければならないとか、あるいは沖縄問題については全面無条件返還運動、それから、学制の問題とかいろいろな問題、公害の問題、司法権独立のために臨時司法制度調査会の問題とかを掲げており、つまり青法協は日本民主法律家協会の傘下にあるわけですね。その上部の日本民主法律家協会の活動方針というのははっきりしておりますけれども、それと大体同じことをやっており、いかに戦っておるかということをチャンとはっきり出して……その基本的考えはすべて人権感覚ということを基礎としてすべての法律、憲法を解釈するというのです。そして国家権力には反抗するのだというような趣旨なんです。その前に会員の意見などを掲載しておりますが、たとえば、私が驚いたことには、拘留の申請は出来るだけ却下するのがいいのであって、却下の率の多い人ほど人権感覚の優れたものであるというようなこととか、大坂方面の会員の意見などでは交通事故の犯罪などというのは、善良なる市民が機械的に犯すものであるから、法定刑から見てもその量定は全部執行猶予にすべきものであって、東京は非常に重過ぎるというようなことなどいろいろのことを書いておりますが……」奥野健一(弁護士・元最高裁判所判事)“裁判官の良心について(二)1970年9月5日座談会”. 法の支配. 日本法律家協会. (February 1971). pp. 39-40. doi:10.11501/2805983
- ^ 「(橋本公亘中央大学教授)試みに、たとえば仮にある裁判官が共産党員であったといたします。そういたしますと、共産党の規約しか決議というようなものを参考なでに見てみますと、どうもやはり裁判官としての身分、あるいは職務の遂行の上ではふさわしくないと思われます。第11回大会の決議によると、「日本共産党の国際的責務は、日本の革命運動を最大限に発展させる」ということであります。共産党規約の前文によれば、「党の目的は、……人民の民主主義革命とひきつづく社会主義革命を経て、日本に社会主義国家を建設し、それを通じて高度の共産主義社会を建設し、それを通じて高度の共産主義社会を実現することにある。」すなわち、革命を標榜している団体であることは間違いないのです。暴力政党であるかどうかということは、今度の大会で否定しておるわけですけれども、その決議を見てみますと、「人民の政府ができる以前に、反動勢力が民主主義を暴力的に破壊し、運動の発展に非平和的障害を作り出す場合には、広範な民主勢力と民主的世論を結集して、このようなファッショ的な攻撃を封殺することが当然の課題となる。」といっています。人民政府が出来る以前でも実力行使をあえて辞さないということをはっきり書いてあるわけです。 そこで、その党員の義務を見てみますと、党規約第2条に、「党の政策と決定を実行し、党から与えられた任務を進んで行なう。」とあります。それから「地位のいかんに拘らず党の規約と規律を固く守る。」ということも書いてあります。そのような規律を守らない党員に対して規律違反の処分があり、いろいろな処分規定があるようです。 そういたしますと、ある裁判官が共産党員であったといたしますと、共産党員としては共産党の規約並びに決議に拘束される。党員の義務は規約の1条と2条ではっきり定められておりますし、党の組織、党の規律の規定で厳重な拘束を受けることになります。 一方裁判官としてはどうかと言いますと、裁判官としてはもちろん自己の信条のみを理由として裁判をすることは出来ないし、また、いかなる他の社会的勢力からも影響を受けて裁判をしてはならないという裁判官としての義務があるわけです。その裁判官は、裁判官の法的義務と党員の義務の衝突に悩まされることになると思うのです。すなわちその両者の義務は両立しない。ですから、いまここで「はっきりした共産主義者」というのは、共産党員という意味であろうと理解いたしますと、私は石田発言の命題は正しいと思います。」“裁判官の良心について(二)1970年9月5日座談会”. 法の支配. 日本法律家協会. (February 1971). p. 36. doi:10.11501/2805983
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- ^ 小林俊三弁護士「自分の態度で客観的に国民から裁判がどう見られるかということについて少しも心配していないかと思うのです。発表されたように青法協がほとんど政治的な決議ばかりをずっとやっていたことは青法協としてはもちろん自由ですが、裁判所もしくは、裁判官それに関係していると見られる国民の側からいえば、裁判所が一方に偏してゆくようでなんか不安心に考のは無理もないだろうと思うのです。別な言葉で言えばそういう裁判官の属する部、あるいはたくさんそういう人がおればその裁判所に満腔の信頼をおけなくなるのはもっともと思います。ですから、裁判官になった以上は、裁判官としての自から公正であるという主観的な信念自負ばかりでなく、前にも出ましたけれども、外から見ても正しく見えなければならない。公正らしく見えなければならないということになります。」 “裁判官の良心について(二)1970年9月5日座談会”. 法の支配. 日本法律家協会. (February 1971). p. 41. doi:10.11501/2805983
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- ^ 守屋克彦『法服とともに』勁草書房、1999年、165頁頁。
- ^ 守屋克彦『青年法律家協会裁判官部会の消滅』
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