ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク家とは? わかりやすく解説

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ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/06/30 03:55 UTC 版)

ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク家の紋章

ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク家Yorck von Wartenburg)はポメレリア貴族である。

歴史

同家の確実な家系 (de:Stammlinieはローヴェ (Rowe牧師であり、ファスゴウ(Vasgow)の一部を領地としていたシンマーヴィッツ家出身のヨハン・ヤルケ・グストコウスキー(Johann Jarcke Gustkowski、1684年頃-1736年)に始まる。

フランスに対する第6次対仏大同盟戦争(1813年)の際、ヨルク中将が10月にナポレオンエルベ川戦線後方のヴァルテンブルク (Wartenburgへ後退させ、10月20日にウンシュトルート川の対岸へと撤退させることに成功した。 これを受けて、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世1814年6月3日、彼を「フォン・ヴァルテンブルク」の家名とともに伯爵に叙した。

家領と叙爵

シュレージエンのラントクライス・オーラウ (de:Landkreis Ohlauにある還俗した聖ヨハネ騎士団騎士修道会管区 (de:Kommende、クライン=エールス (Klein-Ölsは1814年以降、ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯家の世襲財産 (de:Familienfideikommissとされた。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、大将となっていたヨルクを元帥に昇進させると、同地を伯爵位とともに下賜したのである。 国王の証書は1814年6月3日付で発行されている。以後、クライン=エールスの公園と城館は1945年までドイツ詩人学者芸術家が集う場となった。かつてクライン=エールス城には15万冊の書籍を収蔵する世界的に有名な図書館があり、他にも銅版画や木版画の素晴らしい蒐集品を収めていた。

紋章

クォータリーを施され、インエスカッシャンとしてヤーマスヨーク家の紋章である聖アンデレ十字をあしらい、向かって左上および右下に王冠を被る黒鷲(プロイセン王国の小紋章)を銀地に、向かって右上と左下に赤い実を付けた月桂冠に囲まれている地に配する。クラウンは9本の枝を持つ伯爵冠である。向かって右側のヘルメットには 黒と銀のマントを伴うプロイセンの鷲を、中央のヘルメットにはと銀のマントを伴う銀色のライオンの頭を、向かって左側のヘルメットには緑色と銀色のマントを伴う、月桂冠に囲まれた剣をクレストとしてあしらう。サポーターとして向かって右側に天然のライオンを、向かって左側に銀色のユニコーンを配する。

モットーは「Nec cupias nec metuas」(「欲せず、恐れることなかれ」)。

一族の本拠地であるクライン=エールス城。セイヨウボダイジュを植えた西側の庭。

一族

クライン=エールスの家系

シュライプニッツの家系

関連項目

文献

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