ボストン・セルティックス監督
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「レッド・アワーバック」の記事における「ボストン・セルティックス監督」の解説
1949-50シーズンのボストン・セルティックスは22勝46敗で地区最下位と低迷しており、セルティックスのオーナーウォルター・ブラウンはアワーバックに白羽の矢を立てた。アワーバックは監督兼球団副社長(選手人事担当者)という役職でチームに迎えられた。アワーバックは以後半世紀に渡ってチームと関係を持つことになり、人材の登用や試合の采配で才能を発揮しセルティックスをリーグきっての名門に育て上げていった。 当時のセルティックスはスター選手ボブ・クージーを擁し、翌年にはビル・シャーマンを獲得、アワーバック指揮下でチームの勝率は5割以上に持ち直したものの、優勝には至らなかった。 1953年のドラフトでセルティックスはフランク・ラムジーを指名。ラムジーは入団以降、ベンチからスタートしてチームに貢献する「シックスマン(6番目の選手)」として活躍することになった。アワーバックは能力のある選手を先発にせずに起用するという采配を最も初期に導入した監督だった。この起用法はのちのセルティックスの黄金時代を支えることになった。 1956年にボストン・セルティックスは地域ドラフトでトム・ヘインソーンを獲得。このシーズンにはビル・ラッセルもセルティックスにとって是非とも欲しい選手だったため、アワーバックは2位の指名権を持っていたセントルイス・ホークスに選手1名ともう一人の選手の指名権を譲り渡し、見返りにラッセルを指名させ、セルティックスがラッセルを獲得した。 ヘインソーンはこのシーズン新人王を受賞する優秀な選手だった。ラッセルはバスケットボールのプレイに革新をもたらす優れたディフェンダーとしてリーグに君臨することになった。この年にラッセルとヘインソーンを獲得したことにより、セルティックスの黄金時代が幕を開けた。1957年、アワーバックのセルティックスはセントルイス・ホークスを破り初めて優勝を経験した。翌シーズンはホークスに優勝を譲ったが、セルティックスは1958−59シーズンからアワーバックが監督を退くまで8年間連続で優勝し、NBAの歴史に不朽の業績を残した。 8連覇のうち最初の決勝の相手はミネアポリス・レイカーズで、以降はセントルイス・ホークス、サンフランシスコ・ウォリアーズ、ロサンゼルスに本拠を移転したロサンゼルス・レイカーズと優勝を争った。セルティックスは強豪だったものの、苦戦を強いられた決勝シリーズも少なくなく、1957年、1960年(いずれもホークス)、1962年、1966年(いずれもレイカーズ)は最終の第7戦にもつれる接戦だった。 8連覇の前期は、名ポイントガードのボブ・クージーがオフェンスを組み立てる役割を果たし、センターのラッセルがリバウンドやブロックで貢献、そこから始まる速攻がセルティックスの持ち味だった。アワーバックは、試合でオフェンスの基本的なプレイを7種類しか用いなかった。 相手チームの先発選手が疲れた頃に投入され、効果的な貢献をする「シックスマン」は、8連覇の黄金期にもチームの勝利に欠かせないものだった。8連覇前期にこの役割を担っていたのはフランク・ラムジーで、後期にはジョン・ハブリチェックがラムジーの役割を引き継いだ。 アワーバックは人種にこだわらない選手の登用を行った最も初期の監督だった。セルティックスに採用された翌年、アワーバックはドラフトでチャールズ・クーパーを獲得。クーパーはNBAのドラフトで指名された初めての黒人選手になった。またアワーバックは先発5人全てに黒人選手を起用した最初の監督でもあった。 1966年に、アワーバックは選手人事の業務に専念するために監督を退き、後任にビル・ラッセルを抜擢した。選手兼監督として活躍することになったラッセルは、リーグ史上初の黒人監督になった。 アワーバックが獲得ないし指揮した選手のうち、クージー、ビル・シャーマン、ヘインソーン、ラッセル、ハブリチェックなど、のちに殿堂入りする選手や1996年に「NBA史上の偉大な50人の選手」に選ばれる選手は数多い。
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