ブロディの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 03:16 UTC 版)
「第14SS武装擲弾兵師団」の記事における「ブロディの戦い」の解説
師団は激しい戦闘の続くブロディに送られ、第XIII軍団の指揮下で、消耗した6個歩兵師団と共に約80kmの戦線を維持するよう命令された。7月8日、第XIII軍団は第1装甲軍へ転属し、予備とされたガリツィア師団の第29SS、第30SS、第31SS擲弾兵連隊、軽歩兵大隊、工兵大隊、砲兵連隊はブロディに配置された。第14SS野戦補充大隊はその後方24kmに配置された。 7月13日、ソ連赤軍のイワン・コーネフ元帥率いる部隊が攻撃を開始した。翌日までに赤軍は第XIII軍団の北方に配置されたドイツ師団を撃破し、ドイツ軍の反撃も退けた。7月15日、ガリツィア師団は2個装甲師団と共に反撃を試みたが、赤軍第2航空軍はわずか5時間ほどの間に延べ3,288機によって102トンもの爆弾を投下し、阻止にかかった。。7月18日、師団の野戦補充大隊は赤軍の攻撃により壊滅、残存兵は西へ退却した。第XIII軍団に所属するドイツ人とウクライナ人、約30,000名はブロディにおいて赤軍に包囲された。 ガリツィア人部隊は包囲陣内の東側、ピドヒールツィとオレーシコ周辺の防衛任務についた。赤軍は、比較的実戦経験の少ないガリツィア師団の防衛地区に攻撃を集中して、包囲陣内のドイツ軍を殲滅することを決定、7月19日より攻撃を開始した。しかし、ガリツィア師団所属の第29SS、第30SS連隊は師団砲兵連隊の支援の元、予想よりも激しい反撃を行った。午後遅くにピドヒールツィは奪われたが、オレーシコでは軽歩兵大隊と工兵大隊が、T-34戦車を先頭に立てた赤軍の攻撃を撃退した。 7月20日、包囲陣内のドイツ軍師団は解囲を試み、当初は順調に後退できたが、敵の反撃が本格化したため結局押し返されてしまった。この戦闘で第31SS連隊は壊滅した。脱出作戦は翌7月21日午前1時に再開されたがこれも失敗。しかし解囲作戦は外部からも試みられており、同日包囲陣の約16km西方でドイツ軍の装甲擲弾兵連隊が赤軍の前線を突破し短時間ながらも包囲陣内との連絡の確保に成功、約400名のガリツィア兵を含む約3,400名の救出に成功した。一時の成功だったが、その日の終わりまでに赤軍は総攻撃を開始、外部との連絡路はたちまち遮断されガリツィア師団の前線は全面的に崩壊した。ここに至ってフライターク師団長は師団が壊滅したと判断し組織を解散、各員はそれぞれに脱出するよう命令した。フライタークと司令部要員は戦闘団を編成し、指揮下部隊を残して南へ向かった。一部のウクライナ人戦闘部隊はそのまま残り、他の将兵はドイツ軍へ編入されるか逃亡して散り散りとなった。未だ戦力を保っていたウクライナ第14SS軽歩兵大隊は、第XIII軍団の残存部隊の後衛を務めた。大隊がビールィイ・カーミニを確保したことにより、残存部隊や落伍兵は南に退却することができ、赤軍の攻撃を凌ぐことができた。7月21日夕方までに、大隊はブグ川北岸での唯一戦力を維持した部隊となっていた。 7月22日早朝、第14軽歩兵大隊はビールィイ・カーミニを放棄した。ブロディ包囲網は幅、長さ共にわずか5〜8kmにまで縮小していた。ドイツ兵ともガリツィア兵も全力をもって包囲陣を突破するまで前進し続けるよう命令された。さもなければ全滅であった。戦闘は激しく、絶望的なものであった。南へ向けて押し寄せるドイツ兵とウクライナ兵は、歩兵部隊の支援を受けた赤軍第91独立戦車旅団「プロスクーロフ」を圧倒し、数百の将兵が脱出に成功した。そして包囲陣は7月22日の夜までに制圧された 。 激戦にも関わらず師団は規律を維持しており、最終的に大部分の将兵が脱出に成功した。ブロディに展開していたガリツィア兵約10,400名の内、約3,000名はすぐに師団へ復帰した。森や農村に隠れていた約2,300名も数ヶ月後に原隊に復帰、それと同じくらいの人数がウクライナ蜂起軍に参加した。戦死者は約2,000名、約900名が捕虜となった。
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