ブハラ、サマルカンドの陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 16:08 UTC 版)
「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の記事における「ブハラ、サマルカンドの陥落」の解説
1220年2月にチンギスが率いる本隊はブハラに達した。12,000、20,000、あるいは30,000に及ぶ騎兵が守る都市を包囲し、連日攻撃が加えられた。守備隊はモンゴル軍に夜襲を仕掛けて成功を収めるが、ホラズム軍は勝利に乗じて追撃を行うことなく逃走し、アム川河畔でモンゴル軍の反撃を受けて壊滅した。守備隊が逃走した翌日、ブハラのイマーム(宗教指導者)と有力者がモンゴルに臣従の意思を示した。ブハラ市内は略奪と放火に晒され、捕虜とされた市民は軍隊に編入された上で、残存兵とモンゴル軍の指示に従わない人間は殺害された。ブハラの民家の多くは木造の家屋で占められており、煉瓦造りのジャーミー・モスク(大礼拝堂)などの一部の建物を除いて、モンゴル兵の放火によって町の大部分が数日のうちに焼失したことが歴史家のジュワイニーによって伝えられている。ジュワイニーは、ブハラから脱出した男がモンゴル軍の攻撃を受けた町の様子を聞かれて返した 「彼らは来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」」 —アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー、勝藤猛『モンゴルの西征 ペルシア知識人の悲劇』(創元新書, 創元社, 1970年2月)、198頁 というペルシア語としてごく簡潔な言葉を、ブハラ占領を要約する言葉として記している。 ブハラを発ったチンギスはサマルカンドに到着し、別行動をとっていた第一部隊、第二部隊、第三部隊もサマルカンドの包囲に合流する。サマルカンドに布陣したチンギスは将軍ジェベとスブタイに逃亡したアラーウッディーンの追撃を命令し、抵抗する都市は壊滅させるように言い渡した。オトラル陥落後にモンゴル軍の捕虜とされたイナルチュクはチンギスの前に引き出され、イナルチュクは両目と両耳に溶かした銀を流し込む方法によって処刑されたことが伝えられている。モンゴル軍はサマルカンドの守備隊の兵数を警戒し、捕虜を自軍の兵士のように見せかけて恐怖心を煽り立てた。包囲を開始してから2日の間モンゴル軍はサマルカンドの防衛設備を調べ、3日目に城内から出撃したサマルカンド市民を撃破する。守備隊の大部分を占めていたカンクリ族はモンゴル側から助命の約束を取り付けて降伏し、1220年3月あるいは4月にサマルカンドのカーディー(判事)とムフティー(法官)はチンギスに開城を申し出、サマルカンドは陥落した。降伏したカンクリ族の兵士、サマルカンド市民は虐殺され、生き残った市民の中から30,000人の工芸家と職人が王子、皇妃、将校に分配され、同数の市民が兵士として軍隊に編入された。残った50,000人のサマルカンド市民は200,000ディナールの身代金を支払うことを条件に帰還を認められ、サマルカンドはモンゴルの統治下に置かれた。 5,000の兵からなる第三部隊はバナーカトを陥落させた後、職人を軍隊に配置し、市民の中の若者を兵士として徴収した。ホジェンドの指揮官テムル・マリクは1,000人の兵士とともにシル川の川中島に立て籠もり、アラク・ノヤン、スイケトゥ・チェルビ、タガイ・バアトルは援軍として派遣された20,000のモンゴル兵と50,000の捕虜を加えて攻撃を行うが、テムル・マリクはモンゴル軍に頑強に抵抗した。苦境に陥ったテムル・マリクは城塞を放棄して王子ジャラールッディーン・メングベルディーの元に退却し、テムル・マリクが退却する中で次々と兵士を失い、単騎でモンゴル兵の追撃を振り切った逸話が伝えられている。ただし、先述したようにアラク・ノヤンら率いる別働隊はチンギス本隊がブハラ・サマルカンドを急襲するまでの陽動部隊としての任を帯びていたと考えられ、アラク軍がシル川をなかなか渡らなかったこと自体は当初からモンゴル軍の計算の内であったと指摘されている。 1220年の春夏にチンギスはサマルカンドとニーシャープールの中間にあるナフシャブ(カルシ)付近で兵馬に休息を取らせる。
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