フェリーツェとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:20 UTC 版)
「フランツ・カフカ」の記事における「フェリーツェとの出会い」の解説
1912年8月12日、カフカは初めて出版される作品集『観察』の作品配列について相談する為にブロートの家を訪れ、ここで自動筆記機械の宣伝・販売の仕事をしていた4歳年下のユダヤ人女性フェリーツェ・バウアーと出会った(彼女の従兄弟とブロートの姉とが婚姻関係にあった)。カフカは、この女性に非常に強い印象を受け、最初の出会いから1ヶ月経った9月末に突然手紙を送り、10月末から両者の間で活発な文通が始まった。また、最初の手紙を送った2日後の9月22日夜から翌日にかけて短編「判決」を一気に書き上げており、この作品には翌年6月の出版の際に「フェリーツェ・Bに」との献辞が付けられている。1913年にはイースター休暇の際に初めてベルリンに住む彼女の元を訪れ、11月と聖霊降臨祭の時にもフェリーツェを訪問した。また、フェリーツェへの手紙では、11月から12月にかけて執筆した『変身』や、その前後に着手していた『失踪者』の進捗状況を逐一知らせている。 しかしフェリーツェの家族に会う等して結婚が現実味を帯びてくると、カフカは交際に躊躇する様になり、次第にフェリーツェとの間に溝が出来る様になった。こじれかけた仲を取り持つ為、フェリーツェの友人グレーテ・ブロッホが仲介に入ると、カフカはフェリーツェよりも彼女に向けて多数の手紙を書く様になった。1914年6月、フェリーツェと正式に婚約が交わされ、双方の親と共に新居の準備が進められた。しかし結婚によって執筆が妨げられるという不安が消えず、7月12日、ホテル「アスカニッシャー・ホーフ」にてフェリーツェ、グレーテと会談し、婚約を解消する。尚、この後もグレーテと頻繁な文通があり、一時親密な関係にあったと推測されている。 婚約破棄の直後、カフカはバルト海の保養地へ友人エルンスト・ヴァイスと共に旅行に出かけている。この時カフカはヴァイスに励まされ、初めて勤めを辞めて小説で身を立てる事を考えた。両親にもその決意を手紙で知らせているが、この計画は間もなく勃発した第一次世界大戦により阻害された。カフカは傷害保険協会からの申請によって徴兵を免れており、また、当時の日記には執筆中の『審判』に関する記述がほとんどで、カフカの戦争への言及は少ない。 1915年1月末、経緯は定かではないが、カフカはボーデンバッハの町でフェリーツェと再会し、再び彼女と交際する様になった。翌年7月にはマリーエンバートの保養地で10日間を2人で過ごし、11月にカフカがミュンヘンの書店で「流刑地にて」の朗読を行なった際にはフェリーツェも朗読会に訪れている。1917年7月、フェリーツェと2度目の婚約を交わす。しかし勤務と長時間の執筆による無理がたたり、8月に喀血。9月に肺結核と診断され、12月末、病気を理由に再び婚約を解消する。
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