ビエンナーレの始まりとは? わかりやすく解説

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ビエンナーレの始まり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 02:36 UTC 版)

ヴェネツィア・ビエンナーレ」の記事における「ビエンナーレの始まり」の解説

19世紀末イタリア統一により独立失い低迷していたヴェネツィア市は、芸術分野でもミラノなどに押されていた。1893年ヴェネツィア市議会は、ウンベルト1世マルゲリータ王妃成婚25周年記念しヴェネツィア人道及び文化の面で貢献する街になることを決議した同時にその一環としてイタリア美術展」の開催決めた1894年にはジャルディーニで美術展会場となる展示宮殿Palazzo dell'Esposizione)の建設進められた。1895年ヴェネツィア市は国王夫妻臨席の元、ジャルディーニの展示宮殿で「第一回ヴェネツィア市国芸術祭」(I Esposizione Internazionale d'Arte della Città di Venezia )の開会式挙行した。「第一回ヴェネツィア市国芸術祭」は会期中に224千人観客集めた以後ヴェネツィア市は二年ごと芸術祭開催することを決め万国博覧会モデル事業拡大図った当初から「国際展」という在り方重きがおかれ、各国コミッショナー選出した作家作品展覧する国別参加(国別展示)と、授賞制度という特徴持ち美術オリンピックとも称されてきた。当初装飾芸術主だったビエンナーレその後20世紀の美術運動紹介するとなるとともに、国際政治確執舞台ともなってゆく。 20世紀初頭には展覧会国際化進んだ1907年ベルギーがジャルディーニ内に自国専用パビリオン建てると、各国もこれに追随し1914年までにハンガリードイツイギリスフランスロシア自国パビリオン建設した1909年の回では、観客数46万人絶頂達した。その翌年1910年開催されビエンナーレでは、グスタフ・クリムトピエール=オーギュスト・ルノワール個展、およびギュスターヴ・クールベ回顧展が行われるなど、国際的に重要な芸術家招待された。しかし同回、主催者スペイン室からパブロ・ピカソ絵画を、余りに目新しすぎて観客ショック与えるとして撤去し議論となったピカソこの後1948年までヴェネツィア・ビエンナーレ展示されなかった)。第一次世界大戦1916年1918年の回が中止された後、近代美術欧米注目が集まる中、ビエンナーレ近代美術前衛芸術紹介焦点当てるようになった1920年には印象派ポスト印象派ブリュッケ招かれ1922年アメデオ・モディリアーニアフリカ美術紹介され議論呼んだ戦間期には多く重要な近代美術家がビエンナーレ参加している。

※この「ビエンナーレの始まり」の解説は、「ヴェネツィア・ビエンナーレ」の解説の一部です。
「ビエンナーレの始まり」を含む「ヴェネツィア・ビエンナーレ」の記事については、「ヴェネツィア・ビエンナーレ」の概要を参照ください。

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