ビエンナーレの始まり
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「ヴェネツィア・ビエンナーレ」の記事における「ビエンナーレの始まり」の解説
19世紀末、イタリア統一により独立を失い低迷していたヴェネツィア市は、芸術分野でもミラノなどに押されていた。1893年、ヴェネツィア市議会は、ウンベルト1世とマルゲリータ王妃の成婚25周年を記念し、ヴェネツィアが人道及び文化の面で貢献する街になることを決議した。同時にその一環として「イタリア美術展」の開催も決めた。1894年にはジャルディーニで美術展の会場となる展示宮殿(Palazzo dell'Esposizione)の建設が進められた。1895年、ヴェネツィア市は国王夫妻臨席の元、ジャルディーニの展示宮殿で「第一回ヴェネツィア市国際芸術祭」(I Esposizione Internazionale d'Arte della Città di Venezia )の開会式を挙行した。「第一回ヴェネツィア市国際芸術祭」は会期中に22万4千人の観客を集めた。以後、ヴェネツィア市は二年ごとに芸術祭を開催することを決め、万国博覧会をモデルに事業の拡大を図った。当初から「国際展」という在り方に重きがおかれ、各国のコミッショナーが選出した作家の作品を展覧する国別参加(国別展示)と、授賞制度という特徴を持ち、美術のオリンピックとも称されてきた。当初は装飾芸術が主だったビエンナーレはその後、20世紀の美術運動を紹介する場となるとともに、国際政治の確執の舞台ともなってゆく。 20世紀初頭には展覧会の国際化が進んだ。1907年にベルギーがジャルディーニ内に自国専用パビリオンを建てると、各国もこれに追随し、1914年までにハンガリー、ドイツ、イギリス、フランス、ロシアが自国パビリオンを建設した。1909年の回では、観客数が46万人と絶頂に達した。その翌年1910年に開催されたビエンナーレでは、グスタフ・クリムトとピエール=オーギュスト・ルノワールの個展、およびギュスターヴ・クールベの回顧展が行われるなど、国際的に重要な芸術家が招待された。しかし同回、主催者はスペイン室からパブロ・ピカソの絵画を、余りに目新しすぎて観客にショックを与えるとして撤去し議論となった(ピカソはこの後、1948年までヴェネツィア・ビエンナーレに展示されなかった)。第一次世界大戦で1916年と1918年の回が中止された後、近代美術に欧米の注目が集まる中、ビエンナーレも近代美術や前衛芸術の紹介に焦点を当てるようになった。1920年には印象派、ポスト印象派、ブリュッケが招かれ、1922年はアメデオ・モディリアーニとアフリカ美術が紹介され議論を呼んだ。戦間期には多くの重要な近代美術家がビエンナーレに参加している。
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