ビエンナーレの変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 02:36 UTC 版)
「ヴェネツィア・ビエンナーレ」の記事における「ビエンナーレの変化」の解説
1930年、ビエンナーレの管理権限はヴェネツィア市からファシスト党政府のもとに移管された。1930年には音楽祭、1932年には映画祭、1934年には演劇祭が併催され、ビエンナーレは美術以外の分野に拡大した。1938年からは美術祭の部門でグランプリ(国際大賞)の授賞と国際審査委員会の設置が始まった。ヴェネツィアは各国の対抗の場およびファシスト党の文化政策の宣伝の場となり、1942年の回は枢軸国と中立国のみの祭典となった。1944年と1946年は第二次世界大戦とその後の混乱により中止となった。 ビエンナーレは1948年に再開し、ヨーロッパの新しい前衛芸術運動を、後には世界の現代美術の様々な動向を紹介する文化イベントとして生まれ変わった。1950年代にはヨーロッパのアンフォルメルおよびアメリカの抽象表現主義が、1960年代にはポップアートがヴェネツィアで世界に紹介された。1948年から1972年までの回では、イタリアの建築家カルロ・スカルパが会場構成を行い、優れたアイデアで顕著な貢献をした。 ビエンナーレは大国同士が文化の覇を争う場であった。第二次大戦後しばらくはフランスとアメリカ合衆国が自国のアーティストにグランプリを獲らせようと競争を繰り広げた。1964年にはアメリカが軍用機で作品を運搬するなど国家的組織力を使ったバックアップを行った結果、同国代表のラウシェンバーグがグランプリを受賞し、物議をかもした。
※この「ビエンナーレの変化」の解説は、「ヴェネツィア・ビエンナーレ」の解説の一部です。
「ビエンナーレの変化」を含む「ヴェネツィア・ビエンナーレ」の記事については、「ヴェネツィア・ビエンナーレ」の概要を参照ください。
- ビエンナーレの変化のページへのリンク