ビエンナーレの迷走と再生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 02:36 UTC 版)
「ヴェネツィア・ビエンナーレ」の記事における「ビエンナーレの迷走と再生」の解説
1968年には、ビエンナーレが大国主義や商業主義の祭典であるとしてパリ五月革命の影響を受けた学生たちの激しい抗議運動の対象となった。各国の美術関係者がボイコットを呼びかけたり、美術家らが各国政府からの出展要請を断ったりする混乱が起こり、大規模な抗議運動に対してビエンナーレ会場に警官隊が導入される事態となった。またヴェネツィア・ビエンナーレの混迷をよそに、賞制度も国別パビリオン制度もなく、展覧会の全権を握るディレクターが出展作家や展示方法を柔軟に決定するというドイツのドクメンタが躍進しており、ヴェネツィアも改革が迫られた。 1970年には、前回の混乱を踏まえて賞制度が廃止され、「国単位ではなく作家を中心にした展示」「制作の過程を見せるなど観衆をも取り込むようにすること」など、新しい方向性が示された。1972年には、ジャルディーニ以外の会場を使って一つのテーマに沿った特別展を行うなど、権威主義を払拭するための改革も行われた。 1974年の開催はついに見送られることになるが、準備期間の73年に、視覚芸術、映画、音楽、演劇の4部門制となることなどが決定され、1976年に再開に至った。1980年からはイタリアの美術評論家アキーレ・ボニート・オリーヴァ(Achille Bonito Oliva)とスイスのキュレーターハラルド・ゼーマン(Harald Szeemann)がこれからの若手アーティストを紹介する「アペルト」(Aperto)部門を設け、新しいアートシーンへの目配りがなされた。1986年には授賞制度も復活し、かつてのグランプリ(国際大賞)に代わる優秀賞(金獅子賞)が導入された。 1995年に100周年記念のビエンナーレが行えるよう、1990年の回の後、1993年の回まで3年の間隔が置かれた。1999年と2001年、ハラルド・ゼーマンが全体のディレクターに選ばれると、国立造船所アルセナーレを完全に改装して正式な会場とし、中華人民共和国を中心にアジアおよび東欧の作家を大規模に紹介した。新しくアートシーンに登場した国の知られざる現代美術を紹介したことは大きな反響を呼び、2000年代は彼らが世界各地の美術展や美術市場を席巻している。 2005年に開かれた第51回展では、国別展示に史上最多の70カ国が参加したほか、初の女性ディレクター2名がそれぞれ「いつも少し遠くへ(Always a Little Further)」展と「アートの経験(The Experience of Art)」展を企画・開催した。
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