バーンスタイン時代
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「ニューヨーク・フィルハーモニック」の記事における「バーンスタイン時代」の解説
1957年、音楽監督ミトロプーロスは「首席指揮者」という肩書きに変わり、同じ地位を若きアメリカ人指揮者レナード・バーンスタインと分け合う体制となった。翌1958年、低迷する名門を救うべしという世論に応えるように、バーンスタインがアメリカ人で初めてニューヨーク・フィルの音楽監督となった。彼はコンサートの回数を増やし、楽員の雇用形態も安定させ、レコーディングも積極的におこなった。バーンスタイン時代に、楽団の正式名称もニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団からニューヨーク・フィルハーモニックへと改められた(上述のように、運営法人の名称には2014年2月現在でも"Symphony"が残されている)。 バーンスタインの華麗な指揮と明快な音楽解釈、そして何より豊かな音楽的才能は、この誇り高き扱いにくいオーケストラの楽員たちを瞬く間に手なずけた。彼のスター性と相まって、バーンスタインとニューヨーク・フィルとのコンビによるレコーディングやテレビ放送にも注目が集まり、ニューヨーク・フィルの黄金時代が到来した。1958年から1973年までバーンスタインが担当した『ヤング・ピープルズ・コンサート』(Young People's Concert)は、テーマの選定だけでなく楽曲の選定と構成、台本執筆ともバーンスタイン自身が行っている。充実した内容と斬新なテーマ設定は、啓蒙家バーンスタインの面目躍如たるシリーズである。1961年には本拠地をリンカーン・センター内のディヴィッド・ゲフィン・ホール(開場当時の名称はフィルハーモニー・ホール)に移した。 この時代のオーケストラ奏者には、フルートのジュリアス・ベイカー(在籍:1965年 - 1983年)、オーボエのハロルド・ゴンバーグ(1943年 - 1977年)、クラリネットのスタンリー・ドラッカー(1948年 - 2009年)、ホルンのジェームズ・チェンバーズ(1946年 - 1969年)、トランペットのウィリアム・ヴァッキアーノ(1935年 - 1973年)、打楽器奏者のソール・グッドマン(1926年 - 1972年)、ウォルター・ローゼンバーガー(1950年 - 1985年)らが名手として名高い。コンサートマスターはジョン・コリリアーノ(1943年 - 1966年:作曲家ジョン・コリリアーノの父)、デイヴィッド・ネイディアン(1966年 - 1970年)であった。また小澤征爾を副指揮者として呼び、経験を積ませたのもバーンスタインであった。 バーンスタインは音楽監督を退いた後も、桂冠指揮者としてこのオーケストラと密接な関係を保ち、最晩年まで演奏会での共演やレコーディングを重ねた。1960年代に完成させたマーラーの交響曲全集(一部別のオケ)は、世界最初の偉業である。その他、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、チャイコフスキー、シベリウスの交響曲全集と、モーツァルト、ハイドン、メンデルスゾーン、シューベルト、ドヴォルザーク、ショスタコーヴィチの主要交響曲を録音し、管弦楽作品と協奏曲もバロックや古典から現代曲まで、膨大な数のレコーディングを残した。自身の作品も含め、コープランドやエリオット・カーター、ルーカス・フォス、ウィリアム・シューマンなど、現代アメリカの音楽を積極的に演奏した。アイヴズの交響曲第2番を世界初演(1951年)したのも、バーンスタイン指揮によるニューヨーク・フィルである。
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