ハンガリー蜂起の弾圧
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「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「ハンガリー蜂起の弾圧」の解説
詳細は「ハンガリー革命 (1848年)」を参照 オーストリア帝国内の分邦であったハンガリーでは、三月革命以前からハンガリー貴族コシュート・ラヨシュらを中心とした独立闘争が活発に行われていた。これに対しフランツ・ヨーゼフ1世は1848年12月16日にヴィンディシュ=グレーツ侯爵をハンガリーに派遣してブダペストを陥落させた。コシュートは国外に逃亡したが、1849年4月には再びハンガリー人勢力によってブカレストを奪われてしまう。 広大なハンガリーを抑えるのは困難であり、またハンガリー人は支配層であるオーストリア人(ドイツ人)に根強い反感を抱いていたので、オーストリアのみではハンガリー人を完全に屈服させることができなかった。ヴィンディシュ=グレーツ侯爵はロシア帝国に援助を求めるよう皇帝に要請したが、母ゾフィーが反対を唱えたためにフランツ・ヨーゼフ1世は躊躇した。しかし事態を打破するにはやむを得ない状況であったので、ロシア皇帝ニコライ1世に援助を依頼することを決めた。また6月26日には、フランツ・ヨーゼフ1世のハンガリー親征が行われた。 我々の皇帝は素晴らしい限りであります。ラープで遠くに砲声を聞くやいなや、皇帝は手綱捌きもあざやかにみごとな跑足で前方にいた舞台の真ん中に踊り込みました。自分たちと危険と苦労をわかちあってくれる皇帝にへいしたちがどれほど喜び、歓声を上げたかお分かりになられると思います。部隊が街に入るか入らないうちに、皇帝はすでに燃えさかる橋の上におりました。しかし、それにしても皇帝が今にも焼け落ちんとする橋の上を疾駆するさま、そしてそれを両陣営の部隊が呆然と見つめている様子はなんとも感動的な瞬間であったことでしょう。 — 皇弟マクシミリアン大公の手紙より 勇気ある皇帝の行動は、兵士の士気と忠誠心を大いに高める効果があったが、同時にあまりにも危険すぎた。シュヴァルツェンベルク侯爵は諸将との話し合いの上で、マクシミリアン大公の誕生日である7月6日にシェーンブルンへ帰還するよう皇帝兄弟に求め、フランツ・ヨーゼフ1世はこれに応じた。 1849年4月、フランツ・ヨーゼフ1世はワルシャワでロシア皇帝ニコライ1世と会談して、ハンガリー反乱鎮圧への支援を求めていた。オーストリアの申し出に応諾したロシアは、8月13日にハンガリー東部へ出兵した。ほとんどオーストリアの功績であるにもかかわらず、ハンガリーの将軍アルトゥール・ゲルゲイ(ドイツ語版)の降伏を受理したのはロシア軍だった。 1849年10月6日、独立を企てたとされるハンガリー元首相バッチャーニュ・ラヨシュ(ドイツ語版)伯爵を始めとする計114名のマジャル人の要人を粛清させた。バッチャーニュ伯爵は引退してすでに久しく、革命後期の暴動には一切責任がないと当時の世論は考えていた。これによって即位後まもなくのフランツ・ヨーゼフ1世は、「血に染まった若き皇帝(der blut-junge kaiser)」としてハンガリー人に恐れられた。ハンガリーの反逆者に対して取られた措置はヨーロッパの世論にショックを与え、さらにハンガリー人の心情に大きな影響を及ぼすこととなった。 1852年、ハンガリー各地へ行幸し、ハンガリー人の熱狂的な歓迎を受けた。しかし、ある村を通り過ぎた際、村人たちがドイツ語で万歳を叫んでいたのに疑問を抱き、なぜハンガリー語で叫ばなかったのかを村長に訊ねた。すると村長は、それを命じたのは自分であると言った。村人たちはハンガリー語で「万歳、コシュート」と叫ぶのに慣れており、ハンガリー語で万歳を叫ぶと、つい同じことを叫んでしまうのではないかと恐れたのがその理由であった。かつて宰相メッテルニヒは「ハンガリー人を熱狂させるのは簡単だが、彼らを統治するのは困難である」と言った。まさにこのメッテルニヒの言葉のように、ハンガリー人は心の奥底から忠誠を誓ったわけではなかった。
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ハンガリー蜂起の弾圧
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「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「ハンガリー蜂起の弾圧」の解説
詳細は「ハンガリー革命 (1848年)」を参照 オーストリア帝国内の分邦であったハンガリーでは、三月革命以前からハンガリー貴族コシュート・ラヨシュらを中心とした独立闘争が活発に行われていた。これに対しフランツ・ヨーゼフ1世は1848年12月16日にヴィンディシュ=グレーツ侯爵をハンガリーに派遣してブダペストを陥落させた。コシュートは国外に逃亡したが、1849年4月には再びハンガリー人勢力によってブカレストを奪われてしまう。 広大なハンガリーを抑えるのは困難であり、またハンガリー人は支配層であるオーストリア人(ドイツ人)に根強い反感を抱いていたので、オーストリアのみではハンガリー人を完全に屈服させることができなかった。ヴィンディシュ=グレーツ侯爵はロシア帝国に援助を求めるよう皇帝に要請したが、母ゾフィーが反対を唱えたためにフランツ・ヨーゼフ1世は躊躇した。しかし事態を打破するにはやむを得ない状況であったので、ロシア皇帝ニコライ1世に援助を依頼することを決めた。また6月26日には、フランツ・ヨーゼフ1世のハンガリー親征が行われた。 我々の皇帝は素晴らしい限りであります。ラープで遠くに砲声を聞くやいなや、皇帝は手綱捌きもあざやかにみごとな跑足で前方にいた舞台の真ん中に踊り込みました。自分たちと危険と苦労をわかちあってくれる皇帝にへいしたちがどれほど喜び、歓声を上げたかお分かりになられると思います。部隊が街に入るか入らないうちに、皇帝はすでに燃えさかる橋の上におりました。しかし、それにしても皇帝が今にも焼け落ちんとする橋の上を疾駆するさま、そしてそれを両陣営の部隊が呆然と見つめている様子はなんとも感動的な瞬間であったことでしょう。 — 皇弟マクシミリアン大公の手紙より 勇気ある皇帝の行動は、兵士の士気と忠誠心を大いに高める効果があったが、同時にあまりにも危険すぎた。シュヴァルツェンベルク侯爵は諸将との話し合いの上で、マクシミリアン大公の誕生日である7月6日にシェーンブルンへ帰還するよう皇帝兄弟に求め、フランツ・ヨーゼフ1世はこれに応じた。 1849年4月、フランツ・ヨーゼフ1世はワルシャワでロシア皇帝ニコライ1世と会談して、ハンガリー反乱鎮圧への支援を求めていた。オーストリアの申し出に応諾したロシアは、8月13日にハンガリー東部へ出兵した。ほとんどオーストリアの功績であるにもかかわらず、ハンガリーの将軍アルトゥール・ゲルゲイ(ドイツ語版)の降伏を受理したのはロシア軍だった。 1849年10月6日、独立を企てたとされるハンガリー元首相バッチャーニュ・ラヨシュ(ドイツ語版)伯爵を始めとする計114名のマジャル人の要人を粛清させた。バッチャーニュ伯爵は引退してすでに久しく、革命後期の暴動には一切責任がないと当時の世論は考えていた。これによって即位後まもなくのフランツ・ヨーゼフ1世は、「血に染まった若き皇帝(der blut-junge kaiser)」としてハンガリー人に恐れられた。ハンガリーの反逆者に対して取られた措置はヨーロッパの世論にショックを与え、さらにハンガリー人の心情に大きな影響を及ぼすこととなった。 1852年、ハンガリー各地へ行幸し、ハンガリー人の熱狂的な歓迎を受けた。しかし、ある村を通り過ぎた際、村人たちがドイツ語で万歳を叫んでいたのに疑問を抱き、なぜハンガリー語で叫ばなかったのかを村長に訊ねた。すると村長は、それを命じたのは自分であると言った。村人たちはハンガリー語で「万歳、コシュート」と叫ぶのに慣れており、ハンガリー語で万歳を叫ぶと、つい同じことを叫んでしまうのではないかと恐れたのがその理由であった。かつて宰相メッテルニヒは「ハンガリー人を熱狂させるのは簡単だが、彼らを統治するのは困難である」と言った。まさにこのメッテルニヒの言葉のように、ハンガリー人は心の奥底から忠誠を誓ったわけではなかった。
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