デビューからノーベル文学賞受賞まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 03:23 UTC 版)
「セルマ・ラーゲルレーヴ」の記事における「デビューからノーベル文学賞受賞まで」の解説
1894年に出版した第2作『見えざる絆』(sv)がよく売れたため、ラーゲルレーヴは教師をやめて専業作家となった。それ以降、『アンチ・キリストの奇跡』(sv 1897年)、『クンガヘラの女王たち』(sv 1899年)、『地主の家の物語』(sv 1899年)と次々と人気を集め、スウェーデン国内でも国際的にも名声を獲得していく。 1896年、スウェーデン中部のダーラナ地方で「神の声を聞いた」という農民たちが、エルサレムに集団移住した。スウェーデン国民の多くは移住者たちに批判的だったが、ラーゲルレーヴはエルサレムで当事者を取材し、移住した者たちとダーラナに残った者たちの葛藤と和解をめぐり、2部からなる大著『エルサレム (ラーゲルレーヴ)(スウェーデン語版)』を書き上げた(第1部『ダーラナで』(1901年)、第2部『聖地にて』(1902年))。同作は、1901年に第1回ノーベル文学賞の候補となった(受賞は1909年)。 小説家のソフィー・エルカン Sophie Elkan(1853年 - 1921年)とは1894年に出会い、友だちとして伴侶として歩むことになる。互いの作品を読み合い、忖度(そんたく)のない批評を寄せる相手として、ときには構想に鋭く反対されても信頼を置いていたという。エルカンに宛てた書簡集『Du lär mig att bli fri』(自由になれと教えたあなた)が出版されている。エルサレムへの1900年の取材旅行は「アメリカ入植地」American Colony で聞き取り調査を行い、著書『エルサレム』がまとまる。王室とアカデミーから資金援助が続き評論家の反応もよく、ホメーロスやシェークスピアを引き合いに出す論評が現れると、国外でも読者を増やした。 デビュー作がもたらした収入、アカデミーの奨励金や助成金を注ぎ込むと2回旅に出かけ、行き先はエクランを伴ったイタリア旅行、またパレスチナを含む中東のいくつかの国も訪問した。旅先の見聞は作品の糧(かて)となり、イタリアでは幼児キリスト像が実は偽物とすり替わっているという言い伝えを耳にして発想を得た(1897年 Antikrists mirakler『アンチ・キリストの奇跡』)。この作品はキリスト教徒と社会主義者の倫理観を照らしており、舞台をシチリア島にした設定は、故郷を物語の場に選ぶラーゲルレーヴとしては珍しい[要出典]。
※この「デビューからノーベル文学賞受賞まで」の解説は、「セルマ・ラーゲルレーヴ」の解説の一部です。
「デビューからノーベル文学賞受賞まで」を含む「セルマ・ラーゲルレーヴ」の記事については、「セルマ・ラーゲルレーヴ」の概要を参照ください。
- デビューからノーベル文学賞受賞までのページへのリンク