デビューからダービー制覇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 06:57 UTC 版)
「オペックホース」の記事における「デビューからダービー制覇」の解説
1979年10月6日の中京の新馬戦でデビューし、3番人気で3着も折り返しの新馬戦を1番人気で勝った。続く11月4日の阪神でのオープン戦では、最後方の位置から直線だけで全馬を交わして連勝。12月に迎えた関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスはラフオンテースの4着に終わったものの、佐藤は本馬の高い素質を認識し、翌年のクラシック第1冠・皐月賞が最大目標に据えられた。その後は熱発と阪神3歳Sで痛めた外傷を治癒するために休養し、1980年は3月の毎日杯から始動して5着。予定通り皐月賞を目指して関東に遠征し、鞍上をデビュー以来手綱を取り続けていた西橋豊治から関東の第一人者であった郷原洋行にバトンタッチ。前哨戦として出走した中山の菜の花賞(800万下条件)を10馬身差で圧勝し、目標とした皐月賞に有力馬の1頭として臨んだ。重賞未勝利馬であったが、前走不良馬場を圧勝したことを評価されて3番人気であった。しかしここにはオペックホース以上の重巧者・ハワイアンイメージが出走していた。当日は降雨による不良馬場の中、中団待機から直線で先頭に立ったが、直後に上がってきたハワイアンイメージにゴール前で競り負けてクビ差の2着に敗れた。1番人気のトウショウゴッドは道中で骨折。その後は東京のオープン戦を2着とし、5月25日に晴れ・良馬場で日本ダービーを迎える。トライアルのNHK杯を7馬身差で圧勝したモンテプリンスが当日1番人気に支持され、調教で抜群の動きを見せていたオペックホースは2番人気となった。レースではサクラシンゲキが馬群を先導し、二冠を狙うハワイアンイメージ、モンテプリンスが4番手に付け、オペックホースは同馬をマークする形で5番手を進み、本格化前のアンバーシャダイも好位を追走。最後の直線では有力各馬が動き始め、ハワイアンイメージが最初に脱落。しかし逃げたサクラシンゲキが予想外に粘り、モンテプリンスがこれをようやく競り落として先頭に立ったが、郷原の剛腕に促されたオペックホースが一完歩ごとにモンテプリンスに迫った。両馬の競り合いの末、モンテプリンスは脚を使い果たす。オペックホースが追う者の強みを生かし、モンテプリンスをクビ差交わして優勝。重賞初勝利をダービーで果たした。調教師の佐藤、騎手の郷原にとっても初めてのダービー優勝であり、佐藤は1964年の天皇賞(春)以来、16年振りの八大競走制覇ともなった。この競走前、馬主の角田が死去していた。郷原はこの出来事に絡め、後年この競走を回顧した際に「それで、みんなの"気"が集まったんですよ。ダービーは社長の弔合戦だ、って関係者全ての"気"が集まった。厩舎のスタッフの仕事ぶりも凄かったし、僕も、そして馬自身も社長の願いを背負って走ったんです。はっきり言って、オペックホースでモンテプリンスを負かせと言ってもできないですよ。何回走ったって勝てない。でも、あのダービーは違った。何かが起きると思っていた。レース前からね、僕にはレースが見えていたんです。スタートを切ったらこうなる、1コーナーを回ったらこうだってね。レース前に、僕は断言してました。このダービーはこうなる。だからこの位置にいて、こう乗れば勝てるってね。」と語っている。
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