デビューから「のれん分け」まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:16 UTC 版)
「ZABADAK」の記事における「デビューから「のれん分け」まで」の解説
いわゆる「ハコバン」(ライブハウス付きのバンド)で活動していた吉良知彦が、ケイト・ブッシュの『DREAMING』にインスピレーションを受け、1984年に自主製作盤『AFTER THE MATTER』を制作した。この時に、音楽学校での仲間で後のメンバーとなる上野洋子、松田克志が参加。翌1985年、吉良名義で「第3回PARCOオルガン坂大賞」に応募して入賞。グランプリは逃したが、審査員の一人であった立川直樹の推薦もあり、上野・松田とのバンドとして東芝EMIからのデビューが決まる。初期は株式会社トランスフォーマーに所属した。 1986年、東芝EMIの新設レーベル「POPSIZE(ポップサイズ)」設立第1弾のひとつとして発売されたミニアルバム『ZABADAK-I』でデビュー。同年はアイシクル・ワークス(英語版)の来日ツアーでオープニングアクトも務めた。 バンドとしての活動のかたわら、デビュー当初よりCM音楽制作者として注目されるようになり、多数のCM曲や映画音楽などを手掛け、一部はオリジナル作品としてアルバムに収録された。 1987年に松田克志が脱退。松田在籍時のアルバムは『ZABADAK-I』『銀の三角』および、この2枚を後に再編集した『WATER GARDEN』のみである。 1989年に事務所をレコーディングスタジオ経営会社マグネット内のZABADAK OFFICEに、レコード会社をMOON RECORDSレーベル(アルファ・ムーン)に移籍した。この時期は、上野洋子の透明感ある歌声と吉良知彦の美しいメロディ、および緻密なサウンドで人気を博した。 1993年9月25日の日比谷野外音楽堂でのコンサートをもって上野洋子が脱退し、これを「のれん分け」と称した。同日にはベスト・アルバム『decade』も発売された。 以降、吉良知彦は「自分だけのために」作る音楽をZABADAK名義とし、商業音楽家としての活動を吉良名義として使い分けながら、2011年までZABADAKを吉良知彦のソロユニット(ワンマンバンド)として継続した。
※この「デビューから「のれん分け」まで」の解説は、「ZABADAK」の解説の一部です。
「デビューから「のれん分け」まで」を含む「ZABADAK」の記事については、「ZABADAK」の概要を参照ください。
- デビューから「のれん分け」までのページへのリンク