デハ3150形(→クハ3220形)
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「東急3000系電車 (初代)」の記事における「デハ3150形(→クハ3220形)」の解説
当初は目黒蒲田電鉄のデハ200形 (201 - 206) で、大井町線開業用に1927年、川崎造船所で6両が製造された。デハ100形と同様の両運転台型3扉の半鋼製車であるが、全長が17mに伸び、定員も120名(座席44名、立席76名)に増加した。 本形式は、川崎造船所が昭和初期に製造した「川造形電車」の一つである。川崎造船所は1926年の阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)600形電車以降、リベットの多い車体と深い屋根、魚腹形台枠などの共通した特徴を備える16mから17m級の重厚な全鋼製電車を、西武鉄道、長野電鉄などいくつかの私鉄向けに1929年頃まで生産した。これらを指す鉄道ファン間での分類用語が「川造形電車」である。 目蒲の場合は開業時導入されたデハ1形が、阪急の創始者小林一三の進言で当時の箕面有馬電気軌道(阪急宝塚線ほかの前身)に在籍した小型車のコピー的形態を採っていた例があり、院電の中古車が目蒲を経由して阪神急行に転出したこととあわせ、開業まもない頃の目黒蒲田電鉄における、阪急の影響力が伺われる。 1929年に204 - 206が東横に譲渡され、同年、203は「3」が「惨」に通じるとして忌み番回避のため200に改番された。モハ200形への改形式を経て、全車が東急に引き継がれ、デハ3150形 (3151 - 3156) となった。3152と3154は戦災に遭い、1947年にクハ3220形 (3223, 3224) として復旧。クハ3220形の2両はこの復旧時に片運転台、全室運転室化され窓配置はd1D5D5D2(d:乗務員扉、D:客用扉)となった。だが全室構造になったとはいえ運転台は狭く、1954年に車体を交換し、後述するがクハ3223はデハ3552に、クハ3224はサハ3361とされた。残った4両も1953年から1954年にかけて片運転台、全室運転室化されたが、こちらは窓配置も1段窓を除けば後続のデハ3400以降と同様なd1D4D4D2のいわゆる関東型配置(1930年代から1950年代の関東私鉄で典型的に見られた通勤電車のドア・窓配置レイアウト)となり、運転台も奥行1,100mmと余裕のあるものとなった。 サハ3360形3361号に台車を提供後のクハ3220形3224号の車体については、しばらく元住吉構内で詰所として使用されていた。ところが1958年に碑文谷工場で加修の上上田丸子電鉄に譲渡された。上田では旧伊那電気鉄道の木造車クハ260形261の鋼体化に充てられ、クハ270形271となった。1969年に廃止されるまで丸子線で使用されていた。 残るデハ3150形4両は1957年の直流1,500Vへの架線電圧昇圧を経て主に池上線で運用され、1966年から翌年にかけて近江鉄道および熊本電気鉄道に譲渡された。
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