ディオニュシオス勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:16 UTC 版)
「モティア包囲戦」の記事における「ディオニュシオス勝利」の解説
ディオニュシオスは、彼の同僚の将軍たちを非難し、処刑することによって権力を得たものの、紀元前405年にゲラとカマリナを放棄したことで(ゲラの戦い、カマリナ略奪)、シケリアのギリシア人の不満に直面していた。一部のシュラクサイ人はクーデターを試みたが、ディオニュシオスは迅速な行動で反乱を鎮圧した。カルタゴとの間に平和条約が締結された後、シュラクサイはカルタゴに隷属することとなったカマリナと反シュラクサイのレオンティノイ(現在のレンティーニ)に取り囲まれる形となり、さらにシュラクサイの反ディオニュシオス勢力はアエトナ(エトナ山の近く)に集結していた。 紀元前405年から紀元前398年にかけて、ディオニュシオスはシュラクサイの勢力を増大させ、彼を打倒しようとする試みに対処し、シュラクサイをギリシア世界で最高の防御力を持つ城塞都市とした。彼の実施した政策は以下のようなものであった。 シュラクサイの防御強化:ディオニュシオスはオルティジャ島(シュラクサイの旧市街があった場所)に彼に忠実な親衛傭兵部隊と支援者を居住させ、本土と島を結ぶ地峡に城壁を構築した。新規に2つの要塞、1つは地峡上に、もう1つはエピポライ台地のエウリュアロス要塞、が建設された。城壁は、紀元前415年のアテナイのシケリア遠征の際にアカルディナ地域防衛のために築かれたものを利用した。紀元前402年からは、大きくエピポライ台地を囲むように城壁を拡大し、紀元前399年に完成した城壁は全長27キロメートル、14の塔と6つの城門があった。数千人の労働者が多くの部署に分かれて工事を行ったが、ディオニュシオス自身も作業に参加し、最高の労働者には賞金を出して、工事を迅速に進めさせた。結果、ギリシア世界の中ではシュラクサイは最高の防御力を有する城塞都市となり、さらにディオニュシオスは自身の内城(オルティジャ島)を忠実な傭兵に守らせることにより安全を確保した。 軍事の効率化:ディオニュシオスは傭兵を継続的に雇用し、新しい軍船を建造することによって陸海軍兵力を拡大した。ギリシアの伝統では、市民兵は自弁で武器や防具を揃えるが、ディオニュシオスはイタリア半島、ギリシア本土およびアフリカから男達を募集し武装させた。140,000組以上の武器、兜、甲冑が作製された。装備を標準化し、また社会のあらゆる階層から兵士を募集したことで、ディオニュシオスは陸軍の規模を拡大できた(それまでは軍の中心は傭兵と上級市民のみであった)。また、大型弩弓と五段櫂船も開発したが、これら新兵器はしばらくの間戦場での優位をもたらした。ディオニュシオスは軍船200隻を新造し、既存の110隻を再艤装し、輸送船160隻を就役させた。ラクシウムには遮蔽物で隠された、三段櫂船60隻を収容できる秘密の港が作られた。 シュラクサイの領土拡大:ディオニュシオスは紀元前404年にシケル人の都市であるヘルベッススを攻撃することによって、平和条約を破った。カルタゴはこれに対して何の行動も起こさなかったが、シュラクサイ陸軍の一部はアエトナの反乱軍と合流し、メッセネ(現在のメッシーナ)とレギオン(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)の助けを借りて、ディオニュシオスのシュラクサイを包囲した。ディオニシオスは脱出も考慮したが、反乱軍の不手際とイタリア傭兵の助力により危機を脱した。紀元前403年から紀元前398年にかけて、ディオニュシオスはイオニア人都市であるカタナ(現在のカターニア)を破壊してカンパニア人に譲渡し、ナクソス(現在のジャルディーニ=ナクソス)を破壊して住民を奴隷として売り、都市をシケル人に譲渡した。最後にレオンティノイを無抵抗で占領した。ディオニュシオスはまたロクリ出身の女性と結婚することによりイタリア半島のギリシア人との関係を強めた。ディオニュシオスはレギオンに対して友好を提案したが、これは聞き入れられなかった。これらの平和条約違反に対してカルタゴは何もしなかった。 紀元前398年、ディオニュシオスはカルタゴに全権大使を送り、シケリアの全てのギリシア人都市の支配権を彼に認めない限り、宣戦を布告すると伝えた。大使が帰国するに先立ち、傭兵を使ってシュラクサイ領土に住んでいるカルタゴ人に剣を突きつけ、その財産を没収した。さらに、200隻の軍船と補給物資・武器を積んだ500隻の輸送船を伴い、陸軍と共にモティアに向かった。
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