ディオニュシオス動く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:21 UTC 版)
「カタナ沖の海戦」の記事における「ディオニュシオス動く」の解説
紀元前405年から紀元前398年にかけて、ディオニュシオスはシュラクサイにおける自身の政治的権力を確実なものとし、軍備の拡張を行った。紀元前404年には条約を破棄してシケル人との戦争を開始したが、カルタゴは何の行動も起こさなかった。シュラクサイ陸軍の一部が反乱し、ディオニュシオスはシュラクサイで包囲されてしまったが、反乱軍の不手際と幸運が手伝い、この危機を脱した。その後、ナクソス(現在のジャルディーニ=ナクソス)とカタナを占領し、レオンティノイを従属させることによって領土を拡大した。また傭兵を雇用し、新たに200隻の船を建造した。シュラクサイは強固な要塞都市となり、オルティジャ島(シュラクサイの旧市街があった場所)を内郭として、エピポライ台地全体が城壁で囲まれた。また、新兵器として大型弩弓と五段櫂船を開発した。紀元前398年には、シケリア西部のカルタゴ領都市であるモティア(現在のマルサーラのサン・パンタレオ島)を、歩兵80,000、騎兵3,000、軍船200、輸送船500で攻撃した。 平和条約でカルタゴの支配下となっていたギリシア人とシカニ人はこの機会を捕らえて反乱し、ディオニュシオスがモティアに到着したときには、カルタゴ側に残っている都市はモティア以外は5つに過ぎなかった(パノルムス(現在のパレルモ)、ソルス(現在のサンタ・フラーヴィアのソルントゥム遺跡)、アンキラエ、セゲスタ(現在のセジェスタ)およびエンテラ(現在のコンテッサ・エンテッリーナ))。カルタゴには常備陸軍はないため、モティア救援のためにヒミルコ率いる三段櫂船100隻からなる艦隊を送った。ギリシア側の船はほとんどが海岸に乗り上げて停泊していたため、ヒミルコは奇襲によってほとんどの輸送船を破壊し、続いてモティアの北方に停泊していた軍船攻撃に向かった。モティアの北方はルンガ島(現在のグランデ島)とシケリア本島に挟まれた浅瀬で、軍船は通過できなかったため、ギリシア艦隊は袋の鼠となった。ディオニュシオスは一部の軍船を出撃させ、大型弩弓でカルタゴ艦隊に対抗し、また浅瀬に急遽木製の人力牽引用の足場を作らせ、80隻の三段櫂船を外洋に脱出させた。挟み撃ちになることを恐れたヒミルコは撤退した。ディオニュシオスは、モティアとシケリア本島を結ぶ堰堤を修復し(モティアが篭城に備えて破壊していた)、攻城兵器を用いてモティアを攻撃した。モティアは激しく反撃したが、最終的には陥落し略奪された。守備兵をモティアの廃墟に残し、セゲスタとエンテラの包囲を継続しつつ、ディオニュシオス自身とその艦隊の大部分は冬の間シュラクサイに戻った。弟のレプティネスが120隻の軍船(少なくとも30隻は五段櫂船)と共にエリュクス(現在のエリーチェ)に残留した。
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