テレビ放映権移行 - 全日本プロレスとの交流とは? わかりやすく解説

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テレビ放映権移行 - 全日本プロレスとの交流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:40 UTC 版)

国際プロレス」の記事における「テレビ放映権移行 - 全日本プロレスとの交流」の解説

豊登サンダー杉山グレート草津らによる複数エース体制経て1971年からはストロング小林単独エース体制確立した国際プロレスであったが、1974年2月小林離脱しフリー宣言行って新日本プロレス転出した。これに対し国際契約違反として小林違約金支払求めたが、東京スポーツ仲介入り和解金国際支払った上で小林は「東京スポーツ所属選手」として新日本参戦することで決着1975年より正式に新日本所属選手となる)。 TBSの『TWWAプロレス中継』も1972年から変化生じる。同年1月放送時間水曜19時台前半のみの30分に短縮され、さらに4月にはゴールデンタイム外れ日曜18時台移動した同時に基本的に録画中継へと変更され放送権料も開始当初から比べ30%減額された。この時期からネット打ち切る局が現れた他、視聴率10%を切る週が目立ち1973年に入ると視聴率がさらに悪化し日本テレビの『全日本プロレス中継』やNETの『NET日本プロレスリング中継』→『ワールドプロレスリング』と比較して、『TWWAプロレス中継』は平均5%台と最下位転落した10月放送時間土曜午後に再び移動したことに加え愛知県体育館大阪府立体育館などの大会場を放送エリア抱え中部日本放送朝日放送における放送遅れネット変更されるなど、状況はますます悪化。ついにTBS1974年1月28日の『'74パイオニア・シリーズ岩手県営体育館大会最後番組収録とした上で同年2月に『TWWAプロレス中継』の打ち切りを正式発表。『'74チャレンジ・シリーズ』開幕4日後である1974年3月30日をもってTWWAプロレス中継』の放送終了した。 この窮地救ったのが、吉原功早大レスリング部盟友だった東京12チャンネル白石剛達運動部長である。TBS放送打ち切り後、吉原白石国際プロレステレビ中継嘆願し、これが通じて東京12チャンネルは『月曜スポーツスペシャル』内での単発放送踏み切る初回放送として、1974年6月3日の『'74ダイナマイト・シリーズ』後楽園ホール大会生中継放送されその後も2回『月曜スポーツスペシャル』で単発放送された。そして同年9月23日、『国際プロレスアワー』として、かつてNETで『NETワールドプロレスリング』を放送していた月曜20時台において、半年ぶりにレギュラー中継再開された。レギュラー放送復活初回放送は、『TWWAプロレス中継』と同じく日大講堂大会生中継であったまた、全日本プロレスとの交流戦国際プロレス苦境救った。もともと全日本プロレスとは協調路線保っていたため(全日本プロレス旗揚げする際、吉原社長選手不足の全日本杉山友好トレードしている他、1972年11月29日30日にはジャイアント馬場国際プロレス友情参戦)、TBSによる放送打ち切り後初のシリーズとなった『'74チャレンジ・シリーズ』は国際全日本提携記念シリーズとして開催され全日本から馬場をはじめ高千穂明久サムソン・クツワダ大熊元司の4選手3月26日から4月10日まで参戦した(本来は4月11日まで参戦予定だったが、当日予定していた大阪府立体育館大会交通機関ゼネスト影響中止となったため、4月10日出雲体育館大会までの参戦となった)。 さらに、1975年12月全日本プロレス開催したオープン選手権』には木村草津井上の3人が参加外国人選手ではバロン・フォン・ラシクホースト・ホフマンAWAブッキング参戦)。1977年12月の『世界オープンタッグ選手権』にも木村草津国際プロレス代表チームとして参戦し井上高千穂明久との混合タッグ出場している。その間1976年3月28日には蔵前国技館にて全日本との対抗戦が行われ(メインイベント木村VSジャンボ鶴田)、以降1977年11月の『全軍対抗戦』、大木金太郎金一道場加えた1978年2月の『全日本国際韓国 全軍激突戦』など対抗戦形式単発シリーズ開催された(1977年の『全軍対抗戦』には、外国人選手国際プロレスからキラー・ブルックスキューバン・アサシン全日本プロレスからビル・ロビンソンジム・デュランが両団体の前シリーズより残留参戦したが、彼らは対抗戦には出場せずそれぞれの招聘団体日本人選手対戦した)。1978年11月国際プロレス主催した日本リーグ争覇戦』にも、ジャンボ鶴田キム・ドクミスター・サクラダ全日本プロレス選手参加した前年大相撲からプロレス転向した石川隆士は、このリーグ戦においてフリー立場凱旋帰国果たしている)。 吉原にとって全日本プロレスとの対抗戦は、全国ネットを持つ日本テレビ国際プロレスレスラーが映ることで、選手知名度全国区にするという狙いもあったが、全日本選手敗れことによるイメージダウン懸念した東京12チャンネル反対していたという。興行力の差で営業面ではおいしいところ全日本持っていかれたというが、それは当時日本テレビ東京12チャンネル力関係においても同様であり、好カード放送日本テレビ独占されていた(国際主催興行であってもジャンボ鶴田など全日本トップ選手との試合は、東京12チャンネルでは放送時間制限されていたという)。

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