テレビ放映権移行 - 全日本プロレスとの交流
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「国際プロレス」の記事における「テレビ放映権移行 - 全日本プロレスとの交流」の解説
豊登、サンダー杉山、グレート草津らによる複数エース体制を経て、1971年からはストロング小林の単独エース体制が確立した国際プロレスであったが、1974年2月に小林が離脱し、フリー宣言を行って新日本プロレスへ転出した。これに対し、国際は契約違反として小林に違約金の支払を求めたが、東京スポーツが仲介に入り、和解金を国際に支払った上で、小林は「東京スポーツ所属選手」として新日本に参戦することで決着(1975年より正式に新日本所属選手となる)。 TBSの『TWWAプロレス中継』も1972年から変化が生じる。同年1月に放送時間が水曜19時台前半のみの30分に短縮され、さらに4月にはゴールデンタイムを外れ日曜18時台へ移動したと同時に、基本的に録画中継へと変更され、放送権料も開始当初から比べ30%減額された。この時期からネットを打ち切る局が現れた他、視聴率も10%を切る週が目立ち、1973年に入ると視聴率がさらに悪化し、日本テレビの『全日本プロレス中継』やNETの『NET日本プロレスリング中継』→『ワールドプロレスリング』と比較して、『TWWAプロレス中継』は平均5%台と最下位に転落した。10月に放送時間が土曜午後に再び移動したことに加え、愛知県体育館や大阪府立体育館などの大会場を放送エリアに抱える中部日本放送と朝日放送における放送が遅れネットに変更されるなど、状況はますます悪化。ついにTBSは1974年1月28日の『'74パイオニア・シリーズ』岩手県営体育館大会を最後の番組収録とした上で、同年2月に『TWWAプロレス中継』の打ち切りを正式発表。『'74チャレンジ・シリーズ』開幕の4日後である1974年3月30日をもって『TWWAプロレス中継』の放送を終了した。 この窮地を救ったのが、吉原功の早大レスリング部の盟友だった東京12チャンネルの白石剛達運動部長である。TBSの放送打ち切り後、吉原は白石に国際プロレスのテレビ中継を嘆願し、これが通じて東京12チャンネルは『月曜スポーツスペシャル』内での単発放送に踏み切る。初回放送として、1974年6月3日の『'74ダイナマイト・シリーズ』後楽園ホール大会が生中継で放送され、その後も2回『月曜スポーツスペシャル』で単発放送された。そして同年9月23日、『国際プロレスアワー』として、かつてNETで『NETワールドプロレスリング』を放送していた月曜20時台において、半年ぶりにレギュラー中継が再開された。レギュラー放送の復活初回放送は、『TWWAプロレス中継』と同じく日大講堂大会の生中継であった。 また、全日本プロレスとの交流戦も国際プロレスの苦境を救った。もともと全日本プロレスとは協調路線を保っていたため(全日本プロレスが旗揚げする際、吉原社長は選手不足の全日本に杉山を友好トレードしている他、1972年11月29日・30日にはジャイアント馬場が国際プロレスに友情参戦)、TBSによる放送打ち切り後初のシリーズとなった『'74チャレンジ・シリーズ』は国際・全日本提携記念シリーズとして開催され、全日本から馬場をはじめ高千穂明久、サムソン・クツワダ、大熊元司の4選手が3月26日から4月10日まで参戦した(本来は4月11日まで参戦予定だったが、当日予定していた大阪府立体育館大会が交通機関のゼネストの影響で中止となったため、4月10日出雲体育館大会までの参戦となった)。 さらに、1975年12月に全日本プロレスが開催した『オープン選手権』には木村、草津、井上の3人が参加(外国人選手ではバロン・フォン・ラシクとホースト・ホフマンがAWAのブッキングで参戦)。1977年12月の『世界オープンタッグ選手権』にも木村と草津が国際プロレス代表チームとして参戦し、井上も高千穂明久との混合タッグで出場している。その間の1976年3月28日には蔵前国技館にて全日本との対抗戦が行われ(メインイベントは木村VSジャンボ鶴田)、以降も1977年11月の『全軍対抗戦』、大木金太郎の金一道場を加えた1978年2月の『全日本・国際・韓国 全軍激突戦』など対抗戦形式の単発シリーズが開催された(1977年の『全軍対抗戦』には、外国人選手も国際プロレスからキラー・ブルックスとキューバン・アサシン、全日本プロレスからビル・ロビンソンとジム・デュランが両団体の前シリーズより残留参戦したが、彼らは対抗戦には出場せず、それぞれの招聘団体の日本人選手と対戦した)。1978年11月に国際プロレスが主催した『日本リーグ争覇戦』にも、ジャンボ鶴田、キム・ドク、ミスター・サクラダら全日本プロレスの選手が参加した(前年に大相撲からプロレスに転向した石川隆士は、このリーグ戦においてフリーの立場で凱旋帰国を果たしている)。 吉原にとって全日本プロレスとの対抗戦は、全国ネットを持つ日本テレビに国際プロレスのレスラーが映ることで、選手の知名度を全国区にするという狙いもあったが、全日本の選手に敗れることによるイメージダウンを懸念した東京12チャンネルは反対していたという。興行力の差で営業面ではおいしいところを全日本に持っていかれたというが、それは当時の日本テレビと東京12チャンネルの力関係においても同様であり、好カードの放送は日本テレビに独占されていた(国際の主催興行であっても、ジャンボ鶴田など全日本のトップ選手との試合は、東京12チャンネルでは放送時間が制限されていたという)。
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