テレビ放送とアメリカ国内の反応
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「台所論争」の記事における「テレビ放送とアメリカ国内の反応」の解説
1959年7月25日、アメリカの3大テレビネットワークで台所論争の様子が放送された。ニクソンとフルシチョフは米ソで同時に放送することで合意していたため、ソ連政府はソ連の放送準備が整うまでテープの公開を控えるようアメリカに迫っていた。しかし、アメリカのテレビネットワークは、放送が遅れるとニュースの即時性が失われると考えていた。ソ連では、7月27日にモスクワテレビで放送されたが、夜遅くであり、しかもニクソンの発言は部分的にしか翻訳されていなかった。 アメリカ国内の反応は様々だった。『ニューヨーク・タイムズ』紙は、「東西の溝を強調したが、実質的な問題とはほとんど関係のないやりとり」だとして、政治的な煽りだと評した。『ニューヨーク・タイムズ』紙はまた、この論争の後、世論は分裂しているように見えると報じた。一方、『タイム』誌は、「平和的な成果を誇り、その生き方に自信を持ち、脅威の下での権力に自信を持っている国民性を独自の方法で体現した」とニクソンを称賛した。 ニクソンが人気を博したのは、この会談が非公式なものだったためであり、それまでのニクソンに対するアメリカ国民からの生ぬるいという受け止め方が改善された。ウィリアム・サファイアによると、ニクソンはフルシチョフにも感銘を与えたという。サファイアは次のように述べた。「抜け目のないフルシチョフは、ニクソンとの個人的な言葉の決闘から帰ってきて、この資本主義の提唱者は強靭な精神の持ち主(tough-minded)というだけでなく、強い意志の持ち主(strong-willed)でもあると確信した。」 フルシチョフは、この討論の後、1960年の大統領選挙でニクソンの敗北を招くためにできる限りのことをしたと主張した。この外遊はニクソンの政治家としての地位を高め、翌年の共和党全国大会(英語版)で大統領候補指名を受ける可能性を大幅に高めた。 台所論争では、フルシチョフは「ニクソンの孫は共産主義の下で生きるだろう」と主張し、ニクソンは「フルシチョフの孫は自由の下で生きるだろう」と主張した。1992年のインタビューでニクソンは、台所論争の時点で、フルシチョフの主張が間違っていることは確信していたが、自分の主張が正しいとは確信していなかったとコメントしている。ニクソンは、最近のソビエト連邦の崩壊に言及して、フルシチョフの孫たちは自由の中で暮らしており、自分の主張が本当に正しかったことが証明されたと述べた。フルシチョフの息子セルゲイ・フルシチョフはソ連崩壊後の1991年にアメリカに移住し、1996年にはアメリカに帰化した。
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