タイガース復帰 - 東映監督時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > タイガース復帰 - 東映監督時代の意味・解説 

タイガース復帰 - 東映監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 06:16 UTC 版)

松木謙治郎」の記事における「タイガース復帰 - 東映監督時代」の解説

1950年、二リーグ分裂毎日オリオンズ引き抜かれ若林忠志に代わって藤村富美男らの要請を受け監督復帰同時に選手としても復帰した1951年、再び現役引退して監督専念する1954年7月25日大阪スタヂアムでの対中ドラゴンズ戦で、球審判定めぐって紛糾し藤村富美男球審暴行加え観客グラウンド入り中断。再開後に退場宣告されていた藤村打席立とうとして再び観客グラウンドに入る事態となり、没収試合となった松木藤村球審手を出した際、連続試合出場続けていた藤村へのペナルティ回避すべく、自らが矢面立とう球審腰投げ足払い仕掛けて(ともに球審はすぐに坐り込んだという)藤村とともに退場処分受けたが、結局松木藤村両方出場停止罰金処分リーグから下されたシーズン終了後退団。この退団については、没収試合責任取った1973年発行自著タイガース生い立ち』に記しているが、それに先立つ1960年代座談会では「自分よりも高給取り選手が6人もいるのに遠征中の食堂車支払などは自分持ちで、手取り12万円給料はやっていけず、経済的に行き詰まった」と別の理由を口にしている。監督時代の5シーズンは、2リーグ分裂に伴う主力選手引き抜き後で戦力苦しみ松木個人資産もつぎ込んでチーム再建当たった優勝こそできなかったが勝率5割を切ったシーズンはなく、球団史阪神タイガース 昭和のあゆみ』では「松木の手腕と情熱高く評価されるゆえんである」と評している。同球団ではその後1990年就任中村勝広まで、連続5年在任した監督松木しか存在しなかった。吉田義男は「オープン戦中盤頃からショートレギュラー定着させてもらった私は、1年目シーズン通して128試合出場し38もの失策しでかした。それでも私を使い続けてくれた松木監督おかげで1試合ごとに、1年ごとに、ステップアップできたのである実戦での経験何よりの宝になる。試合での痛い失敗積み重ねながら、選手成長していくものだ。」と述べている。 1955年には大映スターズ打撃コーチ就任し1956年途中には監督務めた1958年から1960年には東映フライヤーズ打撃コーチ務め1959年入団した張本勲松木を師と仰ぎ打撃不振になると松木訪ねて指導受けた。ほとんど完成され張本打撃松木はいじらずに「球に逆らうな」のアドバイス与えただけで、打てなくても使い続け張本期待応えて打率.275、本塁打13球団初の新人王輝いた張本は「王選手に取って荒川さんが、私にとっては松木さんだった」と語っている。東映退団後はNHK解説者1961年 - 1968年)を務め1969年から1970年途中まで東映監督務めた

※この「タイガース復帰 - 東映監督時代」の解説は、「松木謙治郎」の解説の一部です。
「タイガース復帰 - 東映監督時代」を含む「松木謙治郎」の記事については、「松木謙治郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「タイガース復帰 - 東映監督時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

タイガース復帰 - 東映監督時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



タイガース復帰 - 東映監督時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの松木謙治郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS