タイガース復帰 - 東映監督時代
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「松木謙治郎」の記事における「タイガース復帰 - 東映監督時代」の解説
1950年、二リーグ分裂で毎日オリオンズへ引き抜かれた若林忠志に代わって藤村富美男らの要請を受け監督に復帰。同時に選手としても復帰した1951年、再び現役を引退して監督に専念する。1954年、7月25日の大阪スタヂアムでの対中日ドラゴンズ戦で、球審の判定をめぐって紛糾し、藤村富美男が球審に暴行を加え、観客がグラウンドに入り中断。再開後に退場を宣告されていた藤村が打席に立とうとして再び観客がグラウンドに入る事態となり、没収試合となった。松木は藤村が球審に手を出した際、連続試合出場を続けていた藤村へのペナルティを回避すべく、自らが矢面に立とうと球審に腰投げや足払いを仕掛けて(ともに球審はすぐに坐り込んだという)藤村とともに退場処分を受けたが、結局松木と藤村の両方に出場停止と罰金の処分がリーグから下された。シーズン終了後に退団。この退団については、没収試合の責任を取ったと1973年発行の自著『タイガースの生い立ち』に記しているが、それに先立つ1960年代の座談会では「自分よりも高給取りの選手が6人もいるのに遠征中の食堂車の支払などは自分持ちで、手取り12万円の給料ではやっていけず、経済的に行き詰まった」と別の理由を口にしている。監督時代の5シーズンは、2リーグ分裂に伴う主力選手の引き抜きの後で戦力に苦しみ、松木は個人資産もつぎ込んでチームの再建に当たった。優勝こそできなかったが勝率5割を切ったシーズンはなく、球団史『阪神タイガース 昭和のあゆみ』では「松木の手腕と情熱が高く評価されるゆえんである」と評している。同球団ではその後1990年就任の中村勝広まで、連続5年在任した監督が松木しか存在しなかった。吉田義男は「オープン戦中盤頃からショートのレギュラーに定着させてもらった私は、1年目のシーズンを通して128試合に出場し、38もの失策をしでかした。それでも私を使い続けてくれた松木監督のおかげで、1試合ごとに、1年ごとに、ステップアップできたのである。実戦での経験が何よりの宝になる。試合での痛い失敗を積み重ねながら、選手は成長していくものだ。」と述べている。 1955年には大映スターズ打撃コーチに就任し、1956年途中には監督を務めた。1958年から1960年には東映フライヤーズ打撃コーチを務め、1959年に入団した張本勲は松木を師と仰ぎ、打撃不振になると松木を訪ねて指導を受けた。ほとんど完成された張本の打撃に松木はいじらずに「球に逆らうな」のアドバイスを与えただけで、打てなくても使い続け、張本は期待に応えて打率.275、本塁打13で球団初の新人王に輝いた。張本は「王選手に取っての荒川さんが、私にとっては松木さんだった」と語っている。東映退団後はNHK解説者(1961年 - 1968年)を務め、1969年から1970年途中まで東映監督を務めた。
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