ズールー族との戦い
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「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「ズールー族との戦い」の解説
同じころ南アフリカには英国植民地が2つ(ケープ植民地、ナタール共和国)、オランダ人植民者の子孫でイギリス支配に反発してグレート・トレックで内陸部へ移住したボーア人による国家が2つ(オレンジ自由国、トランスヴァール共和国)、計4つの白人植民者共同体があった。オレンジ自由国は比較的親英的で英国と協力関係にあったが、トランスヴァール共和国は反英的だった。 そしてその周囲に白人植民者の20倍にも及ぶ数の原住民である黒人が暮らしていた。黒人たちの中ではズールー族が大きな勢力であった。このズールー族はイギリス・ボーア人問わず現地の白人が最も恐れた戦闘民族だった。ズールー族の独立国家ズールー王国は国民皆兵をとっており、男子は槍を血で洗うまで一人前と認められず、また戦闘で敵を一人殺すか傷つけるまで妻帯が認められないという風習があったため、非常に好戦的だった。銃はほとんどもっておらず、昔ながらの投げ槍を武器にしていた。 このズールー族の脅威や1876年のペディ族(英語版)との戦争、財政難などによりトランスヴァール共和国は1877年4月12日に(この時には何の抵抗もなく)イギリスに併合された。大英帝国の一員となったボーア人とズールー族の間で国境争いが起こる中、英領ナタール行政府の長である高等弁務官バートル・フレアはズールー族を武力で制圧することを決意した。イギリス本国に応援を頼みつつ、その到着を待たずに1879年1月にズールー王国に対して「軍隊を廃棄し、非人道的な法・慣習を廃し、首都に英国人を監視役に置くことを認めるなら国境争いになっている土地を譲る」という最後通牒を送った。ズールー族からの返事はなく、現地イギリス軍は本国に独断でズールー戦争を開始した。装備のうえではイギリス軍が圧倒的に優位だったにもかかわらず、ズールー族は勇敢に戦い、イサンドルワナの戦い(英語版)において現地イギリス軍を全滅させた。 本国から増援が送り込まれることとなったが、この際にイギリス亡命中のフランス第二帝政時代の元フランス皇太子ナポレオン4世がイギリスに恩返しがしたいと従軍を希望した。首相ディズレーリはフランス第三共和政の反発を恐れて慎重だったが、ヴィクトリアと元フランス皇后ウジェニーが強硬にナポレオン4世の意思を支持したため、ディズレーリが折れた。しかし結局ナポレオン4世は現地でズールー族の槍を食らって戦死した。この報を聞いたヴィクトリアはショックのあまり泣き出し、その日の日記に「恐ろしい出来事、おぞましいズールー人の姿が脳裏に浮かんできます。」と書いている。ヴィクトリアはディズレーリの反対を退けてナポレオン4世の葬儀に出席し、悲しみにくれるウジェニーを慰めつつ、ズールー族を倒す決意を新たにした。 ナポレオン4世の葬儀から10日後にヴィクトリアは植民地の軍備増強を怠った政府の責任であるという叱責の書簡をディズレーリ首相に送った。ヴィクトリアの寵愛を失う事を恐れたディズレーリ首相は更なる大部隊を現地に送りこみ、ついに1879年8月末にズールー王国首都ウルンディを陥落させ、ズールー族をイギリス支配下に組み込んだ。 しかしズールー族の脅威がなくなったことでボーア人がトランスヴァール共和国再独立を求めてイギリスに対して蜂起し、現地イギリス軍がこれに敗れた結果、首相ウィリアム・グラッドストンはヴィクトリアと保守党の不興を買いながらもトランスヴァールからの撤退を決意した。ヴィクトリア女王の宗主権という条件付きで1881年8月にトランスヴァール共和国独立を認めることとなった。 ズールー族の戦士たちに殺害される直前のナポレオン4世を描いた絵。 カンブラの戦い(英語版)でズールー族を撃破したイギリス軍を描いた絵。 イギリス軍に焼き払われるズールー王国の首都ウルンディを描いた絵。
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