ズールーとの戦闘とナタールの建国
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「グレート・トレック」の記事における「ズールーとの戦闘とナタールの建国」の解説
一方ボーア人本隊はドラケンスバーグ山脈を越え、1838年1月28日にナタールへと到着した。ズールー王ディンガネ・カセンザンガコナ(英語版)はボーア人を歓迎し、1838年2月6日に彼らを宴席へと招いた。しかし宴席の途中でディンガネは奇襲を行い、ボーア人は全滅した。死者の中にはグレート・トレックの指導者であったピート・レティーフ(英語版)もいた。さらにディンガネは残りの植民者にも攻撃を加え、2月17日のウィーネンの虐殺(英語版)によって250人近くのボーア人が殺された。 レティーフらがだましうちによって死亡したことを知ると、ボーア人の中には動揺が広がった。さらに4月9日にはen:Battle of Italeniでen:Piet Uysらが殺害された。 しかし、プレトリウスらの指導によってボーア人は再びズールーへの進撃を続け、1838年12月18日、ブラッド・リバーの戦い(英語版)において464人のボーア軍が1万から2万人のズールー軍に大勝し、ズールー王国の首都を占領した。 結局ズールー人とボーア人は和平を結び、ズールー王国はトゥゲラ川(英語版)以南をボーア人に割譲。ボーア人は首都ピーターマリッツバーグを建設し、1839年10月12日にナタール共和国を建国した。
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