スウェーデン=ノルウェー時代(1814年~1905年)
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「ノルウェーの経済」の記事における「スウェーデン=ノルウェー時代(1814年~1905年)」の解説
「ナポレオン戦争」、「スウェーデン=ノルウェー」、「産業革命」、「イギリス帝国」、「近代における世界の一体化」、および「ノルウェー系アメリカ人」も参照 ナポレオン戦争の過程の中で、デンマーク=ノルウェーはフランス帝国側に立ったことから、イギリスやスウェーデンとの衝突は不可避となった。ノルウェーはイギリスの海上封鎖により、デンマークからの穀物の輸入が途絶え、経済状況は逼迫していった。1814年のキール条約、モス条約までの一連の流れにより、ノルウェーはスウェーデンの同君連合となった。スウェーデン政府はノルウェーの外交権を掌握したものの、ノルウェーは独自の憲法(en、1814年憲法、通称アイツヴォル憲法)を制定し、高度の自治権を有した。ナポレオン戦争中に発行したデンマーク=ノルウェーの国債の整理や通貨の整理のために、1816年にクリスチャニアにノルウェー中央銀行が設立された。 18世紀にイギリスで勃興した産業革命はフランスやベルギー、ドイツ諸邦といったヨーロッパ諸国と同様にノルウェーも呑み込んでいった。1846年、イギリスは穀物法を廃止したことにより、ノルウェーはイギリスに水産物や材木を輸出、海運業を営む中でイギリス帝国の経済システムに組み込まれていった。また、イギリスは安価な労働力と天然資源を求めノルウェーに投資していった。イギリスからの投資により繊維工場の機械が導入された。また、電動鋸などの機械が導入され材木の生産量が増加した。水産業でも改良された漁網と蒸気船が導入され、漁獲高が伸び、干し鱈が地中海地方や南米へ、鰊が缶詰工場で加工され、米英独へ輸出された。スベン・フォイン(no)が捕鯨砲を開発、捕鯨の近代化が推し進められた。1854年にはクリスチャニア~アイツヴォル(en)間で鉄道が開通し、1855年には電信が引かれ、間もなく電信サービスが全国に広がった。また、1880年には最初の電話線が引かれ、全国の郵便料金が統一された郵便サービスが始まった。1880年頃にはノルウェーはアメリカ合衆国、イギリスに次ぐ世界第3位の海運国となった。産業革命の進展とともに、資本の蓄積が進んだ。19世紀末に、GDPの28%を工業が占め、農村から都市部への人口移動の結果、1870年ごろには全人口の20%が都市部とその周辺に住んでいたが、1900年はその割合が30%以上になった。 一方、機械の導入による農業の合理化は、食糧事情の改善・公衆衛生の向上による農村の人口増と相俟って、農村部に過剰労働力を生みだすこととなった。クリスチャニアなどの都市部では過剰労働力を吸収することはできず、多くはアメリカ合衆国へと移民として渡った(ノルウェー系アメリカ人(en))。 労働組合や社会主義思想がノルウェーに浸透しはじめたのも19世紀後半からであった。ナポレオン戦争で輸出されたヨーロッパ各地に広がったナショナリズムもノルウェーにも広がった。水産業や海運業を中心に経済成長するにつれ、スウェーデン政府の外交政策とノルウェーの利益と相反するようになった。1880年代頃からの紆余曲折の末、1905年、ホーコン7世がノルウェー国王に戴冠し、ノルウェーはスウェーデンから独立した。
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