サロン入選の努力(1860年代初頭)
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「エドゥアール・マネ」の記事における「サロン入選の努力(1860年代初頭)」の解説
1859年のサロンに、『アブサンを飲む男』を初めて提出したが、下絵のような無造作な描き方が不評だったのに加え、酔った男や足元の酒瓶という露骨な現実を画題とすることがサロンにふさわしくないと酷評され、落選した。もっとも、審査員だったウジェーヌ・ドラクロワからは評価された。詩人のシャルル・ボードレールも、この作品を賞賛した。この頃には、マネとボードレールは親しく交流していた。サロン落選に続いて、1860年には、マネが制作した肖像画『ブリュネ夫人』が、モデルの家族から受取りを拒否されるということもあった。 この頃、マネが住むバティニョール地区の近くには小ポーランド地区(フランス語版)という貧民街があったが、ジョルジュ・オスマンによるパリ改造の中でマルゼルブ大通り(フランス語版)が縦貫することになり(1861年開通)、古い家屋は取り壊されていった。マネが1861年にアトリエを構えたギュイヨ通り(現メデリック通り(フランス語版))もその近くである。友人マルセル・プルーストの回想によれば、マネは、一緒に小ポーランドを通った時、家屋が埃を上げて取り壊されている情景を見て、長い間押し黙って心を奪われていたという。1860年代初頭のマネの作品には、小ポーランド界隈の貧しい人々を描いたと思われる作品が多い。 1861年のサロンに、『スペインの歌手』と、両親を描いた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』を応募し、いずれも初入選した。当時のフランスではスペイン趣味が流行しており、マネは、イタリア風の古典的作品に反発する立場から、スペインの写実主義的絵画に傾倒していた。彼は、マドリードの巨匠たちやフランス・ハルスを思い浮かべながら『スペインの歌手』を描いたと語っている。『スペインの歌手』は、サロン会場の人目につかない隅に展示されていたが、テオフィル・ゴーティエが絶賛したことから、急に中央の良い場所に移され、優秀賞(佳作)の評価まで受けた。アルフォンス・ルグロ、アンリ・ファンタン=ラトゥール、カロリュス=デュラン、フェリックス・ブラックモンなど、若いレアリスムの画家たちはこの作品に衝撃を受け、そろってマネの家を訪れた。マネは彼ら画家集団の核となっていった。一方、『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』については、両親の間に奇妙な冷たさが流れていることから、批評家から、「マネは最も神聖な肉親の絆でさえも土足で踏みにじる」と非難された。それでも、サロンでの成功を重んじる父に対し、約束を果たすことができた。 同年秋には、イタリアン大通りのルイ・マルティネの画廊で主要作品を展示する展覧会を開いた。この時以来、マルティネ画廊ではマネ作品を取り扱うようになった。 1862年には、テュイルリー宮殿に隣接する庭園で開かれたコンサートを題材とした『テュイルリー公園の音楽会』を制作し、テオフィル・ゴーティエ、ボードレール、ジャック・オッフェンバック、ザカリー・アストリュク、アンリ・ファンタン=ラトゥールといった社交界の友人たちをモデルとして登場させた。第二帝政下の華やかなブルジョワ社会を描いた作品である。マネは、1863年、マルティネ画廊での個展に『テュイルリー公園の音楽会』や『ローラ・ド・ヴァランス』を展示したが、輪郭がはっきりした筆遣いや、平面的な色面の処理が奇妙だと捉えられ、激しい非難にさらされた。 この時期、マネは、内縁の妻シュザンヌをモデルにした『驚くニンフ』や、レオン少年をモデルにした『剣を持つ少年』などを制作している。1862年にマネの父が亡くなると、1863年10月、マネはシュザンヌと結婚した。また、この頃知り合った女性ヴィクトリーヌ・ムーランにモデルを依頼して、『街の女歌手』、『ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像』などを制作している。 『アブサンを飲む男(英語版)』1859年。油彩、キャンバス、180.5 × 105.6 cm。ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館(コペンハーゲン)。同年サロン落選。 『スペインの歌手(英語版)』1860年。油彩、キャンバス、147.3 × 114.3 cm。メトロポリタン美術館。1861年サロン入選。 『オーギュスト・マネ夫妻の肖像(フランス語版)』1860年。油彩、キャンバス、135 × 115 cm。オルセー美術館。1861年サロン入選。 『驚くニンフ(英語版)』1860-1861年。油彩、キャンバス、146 × 114 cm。ブエノスアイレス国立美術館。 『剣を持つ少年(英語版)』1861年。油彩、キャンバス、131.1 × 93.4 cm。メトロポリタン美術館。 『テュイルリー公園の音楽会』1862年。油彩、キャンバス、76.2 × 118.1 cm。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)。 『ローラ・ド・ヴァランス(フランス語版)』1862年。油彩、キャンバス、123 × 92 cm。オルセー美術館。 『老音楽師』1862年。油彩、キャンバス、187.4 × 248.2 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。 『街の女歌手』1862年頃。油彩、キャンバス、171.1 × 105.8 cm。ボストン美術館。 『ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像(フランス語版)』1862年頃。油彩、キャンバス、42.9 × 43.8 cm。ボストン美術館。
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