コペルニクスのアルマゲストの研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:58 UTC 版)
「ニコラウス・コペルニクス」の記事における「コペルニクスのアルマゲストの研究」の解説
1498年にコペルニクスはヴェネツィアで印刷されたばかりのレギオモンタヌスとゲオルク・プールバッハによる『アルマゲストの要約』を手に入れた。本書は「要約」以上の著作で、バッターニーやジャービル・ブン・アフラフなどその後の発展も大いに取り入れ、時に『アルマゲスト』の誤りを正した。構成はユークリッド的に論理の流れを重視しており、『アルマゲスト』の体系をより簡潔かつ明瞭に紹介していた。コペルニクスはこの本で、プトレマイオス天文学の理解を深めた。 また、ラテン語世界に『アルマゲスト』が入ってほどない13世紀前半、イブン・ルシュドやアル・ビトゥルージのプトレマイオス批判とその代替案が知られることになった。彼らはプトレマイオスの惑星軌道モデルが、アリストテレスの「天空は完璧な円を描いて動き続ける」という原則から相当ずれており、「今の天文学は、計算には合うが、存在するものには合わない」と批判し、物理的な原則に合致する天文学の必要を訴え、同心球体説を工夫した。コペルニクスがクラクフ、ボローニャ、パドゥアで学んだころ、イブン・ルシュドの議論への関心は高まっており、例えばアルベルト・ブルゼフスキ(クラクフ)、アレッサンドロ・アキリーニ(ボローニャ)、Agostino Nifo(パドヴァ)といった論者らイブン・ルシュドを論じ、パドヴァでは同心球体説が研究されていた。のちにコペルニクスも『天球の回転について』でこの二人の議論を引用することになる。 古代メソポタミアにおいて既に四季の長さが等しくないことは知られていた。1年は4等分されるのではなく、冬の部分の方が短いのだ。これは太陽が冬は軌道上を速く動いているか、太陽の円軌道の中心が地球からずれていて、太陽が冬の部分では速く動いて見えるかのどちらかだった。ヒッパルコスは太陽の円軌道を地球からずれた場所に置いて、この見かけの非一様さを解決し、プトレマイオスもそれを継承した。 しかし、惑星の運動は太陽のように簡単には解決できなかった。たとえば火星の運動はずっと複雑で、火星は平均より速く動くこともあれば、遅く動くこともあった。そして通常は恒星の間を東に進む火星の動きは、およそ2年に一度遅くなり、止まって、数か月にわたって逆行してからまた東向きに進みはじめるのだった。この逆行現象を説明するためにプトレマイオスは火星を反時計回りで回る2つの円の組み合わせとした。一つは地球のまわりを回る大きな円で、その円の上を小さな円が回ることによって、逆行を説明した。しかし火星の観測結果を説明するにはさらに、大きい方の円の中心を地球から外し、さらに別の1点(エカント)を設定し、火星の大きな円はエカントから見て「一様な角度で動く(角速度一定)」ことが必要だった。プトレマイオスはこの単純な仕組みで、惑星の変化する速さと逆行の様々な長さにとても近い予測が出せることを発見した。しかしプトレマイオス天文学を受け継いだ中世アラビアには、エカントは一様な円運動の原則からはずれたごまかしと考えるものもいた。特に「マラーガ学派」とも称される一群の天文学者らは、エカントを避けて小周転円の導入で等速円運動の原則を維持しながら、プトレマイオスの理論と同じ予言を再現してみせた。特にイブン・シャーティルとコペルニクスの理論の類似は著しく、コペルニクスが彼らの研究に気が付いていた可能性が指摘される。 コペルニクスはプトレマイオスのモデルをアリストテレスの原則に合うように修正しなければならないと考え、ボローニャ大学での法学の勉強のかたわら、ひまさえあれば『アルマゲストの要約』を読んで惑星モデルについての理解を深めていった。コペルニクスは1504年に火星を観測し、「火星は表より2度進んでおり、土星は1度と2分の1遅れている」と書き残している。
※この「コペルニクスのアルマゲストの研究」の解説は、「ニコラウス・コペルニクス」の解説の一部です。
「コペルニクスのアルマゲストの研究」を含む「ニコラウス・コペルニクス」の記事については、「ニコラウス・コペルニクス」の概要を参照ください。
- コペルニクスのアルマゲストの研究のページへのリンク