コペルニクス後の地動説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:02 UTC 版)
以上の理由により、コペルニクスの体系を真実と考える人はほとんどいなかったが、そもそも当時の多くの天文学者は、太陽と地球のどちらが宇宙の中心であるかを確実に説明できるとは考えていなかった。彼らが欲していたのは理論書ではなく、表にある数値をあてはめて計算すれば惑星や月齢が計算できるより簡便な星表であった。当時は占星術が気象予測や医療において実用的に大きな意味を持っており、過去・現在・未来の惑星の位置を分単位で計算する必要があったためである。惑星の位置を決定するための表は太陽中心体系の方が簡単であり、コペルニクスの体系は便利な虚構として利用された。 コペルニクスの著書では計算に必要な値があちこちに散らばって記されており、その著書だけで惑星の位置予報を行うのは困難であったため、1551年、エラスムス・ラインホルトがコペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』を作成した。しかし、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であった。また誤差もわずかにプロイセン星表の方が小さいとはいえ、プトレマイオス説と大して変わらなかった。惑星の位置計算にはそれ以降も天動説に基づいて作られたアルフォンソ星表が並行して使われ続けた。ただし、オーウェン・ギンガリッチは、アルフォンソ星表はこの時代にプロイセン星表に取って代わられたと主張している。 それまで惑星の位置予報はプトレマイオス説を使用しなければ行えなかった。ほかにも似た方法が考案されたこともあったが、プトレマイオス説をしのぐ精度で予報ができるものは存在しなかった。しかし、コペルニクス説に基づいて同等以上の精度で惑星の位置予報が行えることが分かったこの時代に、唯一絶対であったプトレマイオス説の地位は大きく揺らいだ。 ティコ・ブラーエは、恒星の年周視差が当時の望遠鏡では観測できなかったことから、地球は止まっているとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを公転するという折衷案を唱えた。最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子レティクスを除けばヨハネス・ケプラーだった。1597年、『宇宙の神秘』を公刊。コペルニクス説に完全に賛同すると主張してコペルニクスを擁護した。これらに追随する形で、ガリレオ・ガリレイもまた地動説を唱えた。 ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。まず実験によって慣性の法則を発見した。これはアポロニウス、ヒッパルコス、プトレマイオスらが地動説を否定した根拠である、なぜ空を飛んでいる鳥は地球の自転に取り残されないのか、なぜまっすぐ上に投げ上げた石は地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのかを、合理的に説明するものであった。そして実際の天体観測において、木星の衛星を発見し、地球が動くなら月は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を封じた。また、ガリレオは金星の満ち欠けも観測した。これは、地球と金星の距離が変化していることを示すものだった。さらに太陽黒点も観測し、太陽もまた自転していることを示した。ガリレオはこれらを論文で発表した。これらはすべて、地動説に有利な証拠となった。ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが、のちに潮の干満は月の引力によるものだとして否定された。
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