ケネディ、ジョンソン政権(1961-1969)
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「米以関係」の記事における「ケネディ、ジョンソン政権(1961-1969)」の解説
リンドン・B・ジョンソン大統領のアメリカでは、イスラエルに対して全幅の信頼を寄せていたが、その支援に際し、全く疑いがないわけではなかった。1967年の六日戦争の前、アメリカの政権は偏愛主義が現れるのを避けるよう注意を払っていた。ジョージ・レンツォウスキーは著書『アメリカの大統領と中東』の中で、「ジョンソンの不幸な、事実、悲劇的な大統領時代」と述べ、「アメリカの中東における態度」について、米以関係およびアメリカとアラブ諸国の関係が転換期を迎えたと記した。 彼はアメリカの中東認識について1948年以前の「西洋世界の最もありふれたもの」から変化して、「魅力は薄れたものの、スエズ危機におけるアイゼンハワーの忍耐は中東の多くの穏健派を納得させ、もし実際には愛すべきものでなかったとしても、アメリカは少なくともフェアな国として扱われていた。このアメリカの公平と不偏いう視点はケネディが大統領だったときもまだ優勢だった。しかし、リンドン・B・ジョンソンが大統領になると、アメリカの政策は明らかに親イスラエルのほうへ向きを変えていった」と述べた。1967年の6月戦争はこの印象を確信させ、「1967年から(書いていたのは1990年のとき)アメリカは中東において実際には嫌われていた国ではなかったにせよ、最も信頼できない国だということが明らかになった」と書いている。 戦争に至るまで、アメリカの政権は外国の攻撃から自国を守るというイスラエルの必要性に同情的だったが、アメリカはイスラエルの反応が行き過ぎたものになることや地域が不安定になる可能性を懸念していた。イスラエルとヨルダンの間に起きたサム事件はアメリカにとってとても厄介なものだった。なぜならヨルダンもまた同盟国であり、その後別の事件で破壊された東ゴールメイン運河の建設のために5億ドルを受け取っていたからである。 ジョンソン政権が抱いていた当初の懸念は、この地域で戦争が勃発し、アメリカとソ連がそれに巻き込まれることだった。この地域の国々とソビエトによる、初めはホットラインも使われた外交的な激しい交渉も戦争を回避することはできなかった。イスラエルがエジプト空軍を先制攻撃したとき、外交的な解決方法が可能だと感じていたディーン・ラスク国務長官は失望してしまった。 1966年、ソ連製のMiG-21戦闘機に乗っていたイラクのパイロット、ムニール・レドファはイスラエルに着陸し、乗っていた航空機についてすぐさまアメリカと情報を共有した。 六日戦争で[[リバティー号事件|イスラエルのジェット機と水雷艇がエジプト海を航行していたアメリカ海軍の技術調査艦リバティーを攻撃し]]、34人が死亡、171人が怪我をした。イスラエルはリバティーをエジプトの補給艦エル・クセイルと間違い攻撃したと主張し、同士討ちの実例となった。アメリカ政府は多くの論争はあったもののそれとして受け入れたが、いまだに多くの者が故意であったと信じている。戦争が終わると、ワシントンは多くのアラブ諸国(特にエジプト)が恒久的に親ソビエトに向かったと認識した。1968年、議会の強力な後押しを得て、ジョンソンはファントム戦闘機のイスラエルへの売却を承認し、イスラエルの近隣諸国に対する軍事的優位が確立された。しかし、アメリカはソ連製の武器がこの地域に浸透するのを防ぐため、レバノンやサウジアラビアのようなアラブ諸国に対する武器の供与も継続した。 イスラエルとエジプトが消耗戦争を繰り広げる中、イスラエルのコマンド部隊はロースター53と名付けられた作戦において、ソ連が建設したP-12レーダーの基地を占領した。それ以前には知られていなかった情報がその後アメリカに共有された。 1967年にフランス政府がイスラエルに対する武器の禁輸を課したとき、イスラエルはダッソー・ミラージュ5のデザインをスイス系ユダヤ人の技術者から諜報活動によって入手し、これを基にクフィル (航空機)が製造された。これらのデザインもまたアメリカに共有された。
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