グリーンランド遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 16:58 UTC 版)
「ピーター・フロイヘン」の記事における「グリーンランド遠征」の解説
1906年に、友人であったクヌート・ラスムッセンと共にデンマークを出航、グリーンランドへ初めての遠征に出発した。グリーンランドに到着後、1000キロの道のりを犬ぞりで更に北へ北へと向かい、そこでイヌイットとその文化に初めて出会った。数年の間グリーンランドのカーナークに居住し、イヌイットたちと生活を共にした。イヌイット達と交易しながらイヌイット語を学び、狩りの仕方を学んだ。フロイヘンは身長2メートル1センチと非常に体躯が大きく、狼を武器無しで素手で仕留めたり、白熊を一人で狩って毛皮のコートに仕立てたという逸話も残っている。1910年から1924年には、ラスムッセンと共に更に度々遠征に参加し、グリーンランド氷床(en)の横断に成功した。 1910年、ラスムッセンとフロイヘンはグリーンランドのケープヨークにイヌイット達との交易を行う「トゥーレ交易所」を開設。「トゥーレ」という名前は交易所が世界最北の地にあることに基づいて、中世地誌などで「既知の世界の境界線」を越えた世界の最果てを意味する“ウルティマ・トゥーレ”や、古典文学に登場する極北の伝説の地“トゥーレ”から採られた。交易所はその後、1912年から1933年のトゥーレ遠征として知られる7回の遠征で基地として使われた。 1912年、ラスムッセンとフロイヘンによる最初のトゥーレ遠征は、ピアリーランドがグリーンランドと海峡で隔てられているというアメリカ人探検家ロバート・ピアリーの主張が正しいかどうかを確かめる為に行われた。内陸氷地帯を1000kmにわたって探検し、ピアリーランドが半島であることを証明し、イギリスの地理学者で探検家、地理学会の会長 クレメンツ・マーカムに、「犬ぞりでなされた最も優れた業績」と賞賛された。この探検についてフロイヘンは「ヴァグラント・ヴァイキングVagrant Viking (1953) と」 「アイ セイルド ウィズ ラスムッセン I Sailed with Rasmussen (1958) 」の2冊の探検記を出版した。 フロイヘンは著書Vagrant Viking の中で、この遠征が犬ぞりによるグリーンランド横断の史上初の成功と位置づけた。 この遠征の途中で雪崩に巻き込まれた際には、すぐに雪が氷状に固まり抜け出せなくなり、スーツケース大の空間に30時間弱閉じ込められることになった。掘削器具を持ち合わせていなかったフロイヘンは、自らの大便を短刀の形に凍らせて氷を削り落として脱出した。 1910年から1924年の間、トゥーレを訪れるビジターを対象に、イヌイット文化についての講義を行っていた。またデンマークでもラスムッセンと共に、トゥーレ遠征やイヌイットについての講義を度々行った。 フロイヘンの最初の妻、イヌイットのメクパルクとは1911年にフロイヘンがイヌイットの居住地で暮らした際に出会った。グリーンランドのイヌイットの伝承に登場するナヴァラナという伝説上の人物の名前を有しており、フロイヘンの遠征に何度も同行したことで知られている。二人の子供をもうけたが、フロイヘンが「白人として育てるより、エスキモーとして育つことがより幸福である」とし、子供たちをイヌイットの居住区で育てた。 彼女が死去した際、フロイヘンはナヴァラナの遺体をグリーンランドのウペルナヴィクにある古いキリスト教教会の墓地に埋葬したいと望んだが、ナヴァラナが洗礼を受けていなかったことを理由に教会は墓地への埋葬を拒否、フロイヘン自身が墓穴を掘り、自らの手で埋葬した。 フロイヘンは後に、イヌイットの文化や伝統を理解、尊重しないままイヌイット達へ宣教活動を行うキリスト教会を強く批判した。クヌート・ラスムッセンは後に、メクパルクに敬意を表し、1933年に東部グリーンランドで撮影された映画“Palos Brudefærd”の主役にナヴァラナと名付けた。
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