宮原巍とは? わかりやすく解説

宮原巍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/08 19:29 UTC 版)

みやはら たかし

宮原 巍
生誕 (1934-03-16) 1934年3月16日
日本長野県小県郡青木村
死没 (2019-11-24) 2019年11月24日(85歳没)
ネパールパタン
死因 多臓器不全
国籍 ネパール
出身校 日本大学理工学部工業化学科、機械工学科(二部)
職業 実業家、政治家
政党 ネパール国土開発党
子供 宮原ソニア(娘)
家族 宮原毅(兄)[1]
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宮原 巍(みやはら たかし、1934年3月16日[2] - 2019年11月24日)は、日本出身のネパール実業家政治家

経歴

長野県小県郡青木村出身。長野県上田高等学校[3]日本大学理工学部工業化学科、機械工学科(二部)卒業。在学中は山岳部に所属していた。

理研ビニル工業、千代田化工建設に勤務。1958年南極地域観測隊第4次隊、1962年ヒマラヤ登山隊、1965年グリーンランド遠征隊(隊長)に参加。1966年、自転車でインドからネパールに入る。同年ネパール政府通商産業省中小企業局に勤務。1968年にトランス・ヒマラヤン・ツアー社(カトマンズ)、1969年ヒマラヤ観光開発株式会社(本社・東京)を設立。その後、ネパールのシャンボチェに世界最高峰エベレストを望む「ホテル・エベレスト・ビュー」とカトマンズに「ホテル・ヒマラヤ」を建設。

2019年11月24日0時35分(ネパール時間)、カトマンズ近郊・パタン市の病院で多臓器不全のため死去。85歳没[4][5][2]

ネパール国土開発党

2005年6月にネパール国籍を取得し、2006年にネパール国土開発党を設立した。アメリカニューディール政策にならって公共事業による雇用の創出とインフラストラクチャー整備を打ち出していた。

2008年4月10日ネパール制憲議会選挙で小選挙区に11人、比例代表に42人の候補者を立てたが当選者は出なかった[6]。2年後の選挙も闘うと表明していた。

家族・親族

出典

  1. ^ http://uedakant.sblo.jp/s/article/112264103.html
  2. ^ a b 『現代物故者事典2018~2020』(日外アソシエーツ、2021年)p.530
  3. ^ 宮原巍公式ブログ『宮原巍のシンクネパール』 2010年8月27日投稿 https://web.archive.org/web/20160819131640/http://miyaharablog.blog2.fc2.com/blog-entry-34.html
  4. ^ “宮原巍さん死去”. 朝日新聞. (2019年11月26日). https://www.asahi.com/articles/DA3S14270968.html 2019年11月26日閲覧。 
  5. ^ https://m.facebook.com/himakan/photos/a.113954028686278/2618183021596687/
  6. ^ MSN産経ニュース 「ネパール選挙の議席確定 長野出身の実業家は落選」[リンク切れ] (2008年4月25日)

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