クラブの大改革、ドイツを代表する模範的なクラブに成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 01:37 UTC 版)
「SCフライブルク」の記事における「クラブの大改革、ドイツを代表する模範的なクラブに成長」の解説
監督就任当初は主にドイツ2部やドイツ3部で隠れている若手選手を発掘していたフィンケだが、1995年のボスマン判決以降は金銭的に恵まれていない同クラブでのドイツ国籍選手の獲得は難しくなる。また優れたマーチャンダイジングなどにより他クラブが年間予算を巨大化していったため、フィンケ監督は街の人口や経済力など様々な背景から大々的な年間予算のアップを望めないSCフライブルクの対応策として: ドイツを代表する育成部門を作り上げ、優秀な若手選手を育てあげる。20代中頃でこれらの選手を他クラブに売って、獲得した移籍金をクラブの投資にあてる。 他クラブがまだスカウティングを行っていない外国で選手を発掘し、「フライブルクが得意とする一定の国々でのネットワーク」を築き上げる。 金銭的なリスクの高い選手獲得とは異なり、投資失敗の可能性がほぼ無いクラブ設備やスタジアム、トレーニング場などの充実に力を入れ、選手自らが「このクラブでプレーをしたい」と思う魅力溢れるクラブに成長させる。 という方針を打ち出し、全て数年以内で実行する。 1.についてはフィンケ監督自らがコンセプト及びフィロソフィーの確定、指導者の人材確保などを行い、「フライブルガー・フースバルシューレ」(Freiburger Fussballschule、フライブルク・サッカー学校)に代表されるドイツを代表する育成部門を築き上げる。 2.についてはチュニジア、マリに代表されるアフリカ各国や、レバノン、グルジアに代表される西・中央アジア各国など、それまでドイツ語圏のクラブがスカウティングを全く行っていなかった各国で優れたスカウティングシステムを作り上げ、ブラジルやアルゼンチン、チェコ、旧ユーゴスラビアの各国など、多くのクラブが選手獲得のためにスカウトを送り込んでいる国々とは別のルートを作り上げる。 3.についてはフォルカー・フィンケ監督の「クラブの投資はまず足(選手)より石(施設)に」という方針の下、スタジアムの近代化(「スタジアム」の章を参考)、トレーニングセンターの改善のみならず、年間予算の低い小クラブであるのにも関わらず最新の分析ソフトやスカウンティングのデータバンク導入などを行い、規模は小さいながらもドイツで最もモダンなクラブの1つと高く評価される。そのため多くのドイツや他国のクラブがSCフライブルクを「模範的なクラブ」として視察で訪れるようになる。 事実上のGM兼監督としてSCフライブルクを「田舎のアマチュアクラブ」から「ドイツを代表する模範的なプロクラブ」に育て上げたフィンケ監督はクリストフ・ダウム同様ドイツで最も高く評価される指導者の一人となり、FCバイエルン・ミュンヘンやヴェルダー・ブレーメン、バイヤー・レヴァークーゼン、1.FCケルンなど名門クラブから次々と監督就任オファーが舞い込むが、「SCフライブルクという長期的プロジェクトを完成させたい」と他クラブへの移籍を拒否し続けた。 フライブルクという元々地域人口や経済力が低いためスポンサーを獲得しにくい町を本拠地としていることから、SCフライブルクは毎年のようにリーグで最も年間予算が低いクラブであり続けた。このような金銭的に厳しい状況であるのにも関わらず、上記のような優れたコンセプトが実を結び、幾度となく好結果を残し、UEFAカップ本大会でも2度3回戦まで進出する。ブンデスリーガに初昇格を果たした1993年から2007年の間でドイツ・ブンデスリーガとドイツ2部の間を3回行き来するものの、フィンケ監督への評価は下がるどころか、コンスタントに上がり、1990年代後半からは常にドイツ代表監督候補にも挙げられるようになる。 現在、SCフライブルクは「自分がいつかいなくなっても結果を残せるクラブを作り上げたい」が口癖であったフィンケ監督がドイツ・サッカーに残した遺産として知られている。
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