カンブレー同盟戦争(1508年 - 1516年)
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「イタリアの軍事史」の記事における「カンブレー同盟戦争(1508年 - 1516年)」の解説
詳細は「カンブレー同盟戦争」を参照 第二次イタリア戦争から数年が経過した1508年、ヴェネツィアのロマーニャ占領に端を発する新しい対立が生まれていた。教皇ユリウス2世の号令によってフランス・カスティーリャ=アラゴン・神聖ローマ・教皇領が一堂に会する同盟が結成された(カンブレー同盟)。アドリア沿岸部の分割を目指す同盟軍を前に、ヴェネツィア共和国は単独で立ち向かわなければならない状況に置かれた。 カンブレー同盟戦争は戦う陣営が時期によって大きく変動する不安定な戦争であった。まずは二度に亘る敗戦という汚名の晴らさんとするフランス軍の第三次遠征が開始、ヴェネツィア軍はアニャデッロの戦いに破れ、大部分の内陸領が失われた。しかしロマーニャ領有を巡る論争からユリウス2世がヴェネツィアと同盟を結んでフランス軍の梯子を外すと、神聖ローマやカスティーリャ=アラゴン、更にはイギリスも呼応して新たに神聖同盟が結成、フランスは再び孤立に追い込まれた。フランス軍はミラノ公国をスイス傭兵隊を率いるマッシミリアーノ・スフォルツァ(ルドヴィコ・スフォルツァの嫡男)に委ねるとラヴェンナに進軍した同盟軍と相対した(ラヴェンナの戦い)。戦闘ではフランス軍が優勢を維持していたものの、指揮官ガストン・ド・フォワの戦死などが響いてラヴェンナは陥落、フランス軍は三度イタリアから退却した。 しかし1512年、今度は神聖同盟軍の側で領地分配に関する議論で仲違いが起き、更にヴェネツィアがフランスと単独講和を結んだ事で同盟は瓦解した。ヴェネツィアはロンバルディア分割を取り決めて内陸領を奪還した。1513年、フランス軍はミラノ公国を再度没収すべく軍を進めたが、ノヴァーラの戦いでマッシミリアーノを守るスイス傭兵隊に敗北した。以後、フランスは数度に亘ってミラノ攻略に失敗し続けたが、フランソワ1世の代に漸くマリニャーノの戦いでマッシミリアーノを追放することができた。これで北イタリアはフランスとヴェネツィアが分割する状態となった。
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カンブレー同盟戦争(1508年 - 1516年)
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「イタリア戦争」の記事における「カンブレー同盟戦争(1508年 - 1516年)」の解説
詳細は「カンブレー同盟戦争」を参照 1511年、教皇ユリウス2世がアラゴン、ヴェネツィア、イングランド、スイスと神聖同盟を結び、フランスに対抗。1513年2月にボスコリ事件でニッコロ・マキャヴェッリが失脚、3月にメディチ家から新教皇レオ10世(在位:1513年 - 1521年)が誕生、6月6日にミラノからフランス軍が追放される(ノヴァーラの戦い)。スフォルツァ家が一時復帰。1515年、フランス王フランソワ1世がミラノに侵攻(マリニャーノの戦い(イタリア語版、フランス語版、ドイツ語版、英語版))。スフォルツァ家を追放し、ミラノを支配する。
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