ヴェネツィア-教皇同盟
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「カンブレー同盟戦争」の記事における「ヴェネツィア-教皇同盟」の解説
ヴェネツィアとの戦争に勝利したユリウス2世だったが、フランス軍の一方的な攻勢を目の当たりにし、徐々にイタリアにおけるフランスの影響力が強くなり過ぎる事を懸念するようになった。更に問題だったのが、先の戦争で活躍したフェラーラ公アルフォンソ・デステが教皇領における塩の専売権を巡ってユリウス2世と対立し、自らが征服したポレージネを維持するためにヴェネツィア軍へ攻撃を続けていた事だった。ユリウス2世はこれを機にフランスの同盟国であるフェラーラ公国を攻撃し、同国を教皇領に組み込むと共にフランスの勢力を削ごうと考えた。教皇はスイス傭兵を雇ってミラノのフランス軍を攻撃するよう命じると共に、ヴェネツィアへ対フランス同盟を打診した。フランス軍の猛攻に直面していたヴェネツィアは即座にこの申し出を受諾し、ここにヴェネツィア-教皇同盟が成立した。 1510年7月、新たに成立したヴェネツィア-教皇同盟はフランスとその同盟国に対する攻撃を開始した。最初の攻撃となったジェノヴァ解放は失敗に終わったものの、8月初旬にはルシオ・マラベッツォ率いるヴェネツィア軍がヴィチェンツァの奪還に成功し、8月17日になるとウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ率いる同盟軍がモデナを攻め落とした。ユリウス2世はアルフォンソ・デステを破門すると宣言し、フェラーラに対する侵攻を開始した。序盤の優勢と勝利への期待感から、教皇は前線に近いボローニャにまで自ら出向いている。 しかしながら、教皇が派遣したスイス傭兵はルイ12世の賄賂によってフランス軍との戦闘を拒否したため、彼の軍隊は何らの抵抗を受ける事もなくイタリア中部にまで南進する事ができた。8月初旬になるとシャルル2世・ダンボワーズ率いるフランス軍がボローニャへの進軍を始め、18日には町から僅か数マイルの距離にまで迫っていた。ユリウス2世は今や、ボローニャ市民は教皇の統治に強く反発しており、フランス軍には喜んで門を開くだろうという事実を受け入れざるを得なくなった。頼みの綱だったスイス傭兵の裏切りに遭い、同盟国のヴェネツィア軍も市内には僅かな騎兵隊しか駐留していなかったため、教皇にできる事はダンボワーズを破門すると脅す事だけだった。だが当のダンボワーズはローマ教皇その人への攻撃は避けるべきだとするイングランド大使の助言を受け入れ、フェラーラに軍を撤退させている。 12月になると、新たに編成された教皇軍がコンコルディアを征服し、フランスの支配下にあったミランドラへの包囲戦を開始した。ダンボワーズは救援に向かったものの、進軍途中で病にかかって死去し、動揺したフランス軍は短期間の内に撤退してしまった。教皇自らが指揮を取っていたミランドラは1511年1月に陥落したが、教皇軍が一旦カザレッキオへ兵を退いている間にダンボワーズの後任となったジャン・ジャコモ・トリヴルツィオは攻勢に出、コンコルディアとカステルフランコを奪還している。一方、ポー川での戦闘でヴェネツィア軍に大敗したアルフォンソ・デステは、教皇を孤立させるため再度ボローニャへ軍を向けた。ユリウス2世はフランス側の挟撃を恐れてラヴェンナへ発ち、町の防衛にはアリドッジ枢機卿を残したものの、アリドッジは不人気だった教皇よりも更に町の市民に嫌われており、ボローニャ市民はトリヴルツィオ率いるフランス軍が1511年5月23日に町に到達するや速やかに門を開いて降伏してしまった。ユリウス2世はこの敗北の責任はウルビーノ公ローヴェレにあると非難し、激昂したローヴェレはアリドッジを教皇近衛兵の眼前で処刑している。
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