サヴォナローラとの対立
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「アレクサンデル6世 (ローマ教皇)」の記事における「サヴォナローラとの対立」の解説
この頃、チェーザレの権力は頂点に達していた。暴力的で一度目をつけた相手を決して許さない冷酷な男、そう評されたチェーザレには父である教皇すら手を出せなかったともいう。もっともチェーザレはただの強欲な権力者ではなく、政治家として有能で冷徹なマキャヴェリストでもあった。チェーザレが多くの金を必要とするようになると教皇は資産の没収を始めた。そうして滅ぼされたものには教皇の秘書も含まれていた。 没収の仕方は大雑把なものだった。まず、誰かに資産があると噂が立つと、何らかの罪によって告訴される。告訴されるとすぐに投獄され、しばしば処刑へと進み、当人の資産が没収された。 教皇庁でこのような無法が横行し始めた事に人々はショックを受けた。同様に横行していた聖職売買も非難されたが、事態は既にボルジア家の悪口を言おうものなら死を覚悟しなければならない程になっていた。聖職者の堕落にそれほど目くじらをたてる時代ではなかったにも関わらず、ボルジア家は悪名を轟かせていた。 このように誰もが口をつぐむ情勢の中、ドミニコ会員でフィレンツェで大きな影響力を持っていたジロラモ・サヴォナローラは敢然と教皇とボルジア家の不正を批判、公会議召集を呼びかけた。メディチ家への反発もあり市民は当初サヴォナローラを支持していたのと、フィレンツェがフランスと同盟していた事により、教皇も強硬な姿勢を取る事ができなかった。どうしてもフィレンツェを反フランス同盟に引き入れたかった為、フィレンツェ市民の反感を買いたくないという事情もあった。アレクサンデル6世はサヴォナローラに対して説教の禁止と教会組織への服従を要求し、フィレンツェに対してはフランスとの同盟を破棄するよう度々迫った。 その後、サヴォナローラのあまりに厳格な政策と教会からの破門によって人心は彼から離れ、ついにサヴォナローラは捕らえられて1498年5月23日に処刑された。この頃、オルシーニ家とコロンナ家は争っていたが、最終的に対教皇同盟を結ぶ事で手を組む。 この頃から一層の基盤強化の為、アレクサンデル6世は婚姻による外交の強化に力を入れ始めた。1497年にルクレツィアとペーザロ公との結婚を無効にし、フェデリーコ1世の娘とチェーザレの結婚が出来ないとわかると、フェデリーコ1世を脅してアルフォンソ2世の3男ビシェーリエ公アルフォンソ(英語版)とルクレツィアの結婚を承諾させた。 チェーザレはその頃には既に枢機卿ではなくなっていたが、教皇使節としてフランスへ赴き、ルイ12世と王妃ジャンヌの結婚を無効と認める回勅と引き換えにヴァレンティノ公の地位を手にいれ、イタリア半島の僭主達を打倒する為の援助の約束を取り付けた。その上でチェーザレはナバラ王国の王女シャルロット・ダルブレと結婚した。 アレクサンデル6世はルイ12世が前王シャルル8世以上の貢献を自分にしてくれる事を期待しており、スペインとスフォルツァの反対を押し切って1499年1月にフランスと同盟、ヴェネツィアも引き入れた。1499年の秋にはルイ12世がイタリアへ進軍し、スフォルツァ家をミラノから追放した。フランスの協力による成功に気を良くした教皇は北イタリアに割拠する僭主達(シニョリーア)を今こそ一掃しようと考えた。当時の北イタリアでは名目上は教皇領となっていても小君主達が都市に拠って割拠独立していたのである。チェーザレは教皇軍の司令官(ゴンファロニエーレ)に任命されると、フランスの支援の元に都市群を次々に陥落させていった。しかし、ミラノからフランス軍が追い出されてルドヴィーコが復帰した為、チェーザレは1500年の初頭にいったんローマへ帰還した。
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