エルヴィスの兵役:1958年 - 1960年
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「トム・パーカー (マネージャー)」の記事における「エルヴィスの兵役:1958年 - 1960年」の解説
パーカーとエルヴィスは大きな成功を手に入れたにも関わらず、パーカーは、エルヴィスの人気は1-2年しか続かないだろうと信じ込もうとしていた。マネジメント業についた初めの頃以来、パーカーは多数の人々の盛衰を目にしてきており、パーカーにとって最も成功した出し物だったとはいえ、プレスリーをそのような盛衰の例外だと考えるのは、馬鹿げているように思われた。1958年1月、プレスリーは、アメリカ陸軍から召集令状を受け取った。プレスリーは、兵役が自分のキャリアに影響するのではないかと考えて動揺したが、パーカーは密かに大喜びした。その頃、プレスリーはパーカーに反抗する姿勢を見せる兆しがあったが、陸軍で厳しい扱いを受ければ、それも収まるだろう、とパーカーは考えた。 パーカーは将来を考え、プレスリーを説得して、通常の一兵卒として兵役に服させた。プレスリー自身は、特別サービス部隊 (Special Services, SS) に加わって、パフォーマンスをしながら、他の一般の兵士たちより気楽な任務につくことを望んでいた。しかし、パーカーは、プレスリーがいかなる形でも特別扱いされるようなことがあれば、プレスリーの音楽スタイルを嫌う人々やメディアから、格好の非難材料に使われるであろうことを見越していた。もし、プレスリーが、他の普通の若者たちと変わらないのだということを世界に示すことができたなら、もっと多くの人々がプレスリーと、その音楽を受け入れるはずだ、とパーカーは考え、プレスリーを説得した。パーカーはまた、もし少しでもプレスリーに兵役を回避させようと試みれば、パーカー自身の軍歴が詮索されることになりかねないとも懸念していた。さらにパーカーは、破壊された側の世界(敗戦国など米軍が進駐した地域のこと)で最も有名な髪型である、陸軍流の髪型に刈り上げられる場面を含め、プレスリーの入営をメディアに取材させれば、プレスリーを宣伝する格好の機会になることも見通していた。 プレスリーがドイツで兵役に就いている間、パーカーはプレスリーの名が人々の間に広まり続けているよう、懸命に動き回った。RCAが、そして何より一般大衆が、プレスリー関係の素材をもっと欲しがるように仕向けておけば、兵役を終えてプレスリーが復帰した際に、より良い条件で契約交渉に臨めると踏んでいたのである。パーカーはプレスリーのために、入営前にシングル盤5枚分の録音を手配し、RCAが2年間に途切れることなくシングルを出し続けられるようにしておいた。RCAは、プレスリーに何とかドイツでも録音をさせようとしたが、パーカーは、ドイツで録音スタジオに入って歌うようなことをすれば、一兵卒として軍務に就いているプレスリーの評判が台無しになるとして、これに反対した。兵役に就いている間も、プレスリーは定期的に新聞記事の題材となり、除隊して帰国したらケーブルテレビでライブ放送をするらしいとか、テレビで全国中継されるスペクタクル番組の年間契約に合意したようだ、といった話が流された。これらはいずれも、でっち上げ の虚報であったが、プレスリーの名を人々の目に見えるところに置き続けたのである。 パーカーは、プレスリー不在の間も事態を完全に掌握しているように見えたが、それでもドイツで外部からの影響がプレスリーに及ぶのではないかと心配した。パーカーはヨーロッパへ渡ることは拒み、外国語が使えることも否定していた。代わりに、ヨーロッパ滞在中にプレスリーを補佐するビジネス・アソシエイトとして、プレスリーの取り巻きの友人を派遣して、電話と手紙で頻繁に連絡を取った。パーカーは、マネージャーを引き受ける者は他にもおり、25パーセントもの取り分を要求する契約などは求めない、とプレスリーが考えるのではないかと虞れていた。またパーカーは、この時点でもプレスリーの人気が失墜し、無に帰すのではないか、人々が誰か新しいスターを見つけ出してしまうのではないか、自分の金の卵を生むガチョウ(プレスリーのこと)が、たんなる「かつては...」という存在に落ちぶれてしまうのではないかと恐れていた。
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